脇見恐怖(症)の対策
昨日、取り上げた脇見恐怖(視線恐怖症の一種)に対する自分なりの対応策をまとめてみた。
視線恐怖と言われると、「他人と目を合わせられない人」というようなイメージを持たれるかもしれないが、私の場合は、他人と目を合わせること自体は特にストレスにならない。むしろ、誰かと一対一で会話するような場面は、相手の目を見て話すべきだという前提があるので、かえって楽だったりする。どれだけ相手の目を見ても問題がないから、そこに視線を注視すればいいという安心感があるからだ。
私の場合、相手に視線を向ける必要がないし、むしろ視線を向けることが推奨されないような場面(例えば、電車で座席についたときに正面にいる人や隣り合った人を、理由もないのにジロジロ見るのはよくないことだろう)で、見たくもないのに視界に入る他人の視線を気にして、そちらのほうに視線を向けてしまうことが問題なのである。そして、そんな自分の視線に他人が気づき、「なんかあいつ、こっちを変な目で見てくる」などと不審がられたり、不審の念を抱かれたりするのではないかということにめちゃくちゃ不安を感じてしまうのだ。
こうやって自分で文章化してても、当事者じゃない人には分かりづらいだろうなあ、と思う。
「そんなの、気にしなきゃいいじゃん」と、言われたこともあるし、かかりつけの心療内科医も、基本的には「できるだけ気にしないようにするしかない」という立場だ。不安感や緊張感を和らげる薬は処方されているけれど、抜本的な解決には至っていない。
以下は自分なりの対策法だ。
①「他人の視線」に関する自身の認知の歪みを修正する
他人の視線を意識しすぎることの根底には、「他人も自分の様子について強い関心を払っている」というような思い込みがある。私の場合、すれ違いなどの場面で、他人が目を背けたように見えたりしたら、「自分が変な目つきをしていたから目を背けられたのかな」と自動的に思ってしまうのだが、実際のところはわからない。たまたま私とすれ違う瞬間に、何か別の物に気を取られて、視線を下げたりしたのかもしれない。相手の頭のなかは分からないので、他人の行動がすべて「自分の目つきや動きに起因している」と悪い方に考えず、いろんな可能性があると意識して、認知の歪み(極端な偏り)を修正していく。認知行動療法といわれるものの真似のような感じだが、これを意識していくことで、中高生の頃よりは、すれ違いなどの場面での相手の視線への過度の執着を軽減できたような気がする
②脇見恐怖を発動しないよう、自分の行動を変える
①が心理面でのアプローチなら、②は目に見える実践的なアプローチになる。具体的な例を挙げると、
・歩く場面を減らして自転車を利用する
これが一番、効果があると感じている。自転車は本当にいいのだ。前回の記事で「走って追い越すことで他人の視線が視界に入る瞬間をやり過ごす」という手段を挙げた。自転車の場合、サドルの高さに合わせて座ることで、歩行者との目線の高さを変えられるうえ、スピード感を持って追い越し、すれ違いの場面を終えることができる。人が多い場所からも逃げやすいし、信号を待つときとかも、他人の最後尾に離れて位置しておき、信号が変わったら一気に追い越すというように、横並びを回避して動きやすい。本当に、自転車最高!!
・逃げ場がない場合は、目を閉じておく
他人がいる環境下で、逃げ場がなく、けれどどうしてもその場に居続けなければならない場合は、いっそ目を瞑って、自分から視界を閉じることも効果がある。通勤時間の電車のなかなどで、混んでいて、座っていても立っていても、他人の目が視界に入る場合などは、仕方がないと割り切って、目を瞑ってやり過ごしたりしている。現在、私は職場まで片道約40分ほど電車に乗る必要がある。自分の症状の程度は、たいへん幅があり、双極性障害の気分の変調にも左右される。状態が悪いときには他人の目が視界に入ることが本当にきついので、40分間目を瞑りっぱなしで時間を潰している。スマホを利用するなり、読書の時間に充てるなり、いつも時間を有効活用したいと思ってはいるのだが、スマホや本に視線を集中しようとしても、どうしても周りの人間が気になって視界に入って来てしまうので、致し方ない。
そこそこ空いている電車内で、先頭車両の補助シートに座れた場合、隣の補助シートに人がおらず、かつ先頭の両扉に囲われたスペースが無人な場合だけは、落ち着いて自分のペースで乗車していられる。ただ、途中駅に着いたら、扉が開いて乗降客の動きがあり、運転士も駅の乗客の動きを確認して後方を目視するので、乗降客や運転士の視線が気になって緊張したりする。
③「あいつの視線がおかしい」「なんか睨んでくる」というような誤解をたとえ受けても、仕方がないと諦める
再び、心理面のアプローチになるだろう。正直言って、これはなかなか難しいことなのだが、諦めの境地に達することができたら理想なんだろうな、と思っている。例えば、すれ違いざまや追い越しの場面で相手に何を思われようと、はっきり言って、ただの通行人との関係性などどうでもいいことなのだ。どうしてただの通行人が自分をどう見るかなどに拘泥しつづけるのか。そう考えてみると、かなり馬鹿馬鹿しいことなのだ。一回性の講演会に参加して、講義室内で他人と横並びになった場合や、映画鑑賞やスポーツ観戦などで横並びになった他人の目にしても、一回きりのことなのだ。どう思われようと知ったことじゃない、と思えれば、どうってことないはずなのだ(そもそも、他人は講演を聴いたり映画を見たりするためにその場にいるのであって、隣の客の視線なんか、はっきり言って眼中にないはずなのだ)。
ただ、一番苦しいのは、長期的に他人との関係性を築く必要があり、かつ逃げることができない場だ。それは中高生の頃は学校の教室であり、大学生のころは講義のとき(大教室の講義よりも、小教室やゼミの場面が苦手だった)であり、現在は職場なのである。
脇見恐怖だけではなく、私には双極性障害(確定診断)を患って3回ほど休職した過去があり、音に対するある種敏感な感じ(近くの音・声よりも遠くの音・声が気になってしまう、周りが気にしないような小さな音をやたら気にしてしまう場面がある、など)、発達障害(のうち、特にASD)っぽい傾向が見られること(かかりつけ医から可能性は指摘された、「あんたのこと発達障害だと思ってる」など、素人からだが面と向かって言われたことが何度かある)もある。周りがどう思っているかは分からないのだが、こういった私の性質の影響で、私は余計に自意識過剰になり、周りから悪い意味で注視されているように感じてしまっている。開き直って、他人に何を言われようが(実際に視線のことではっきり言われたことはないのだが)、どう思われていようが(実際は何とも思っていない人もいるのかもしれないが)関係ない、自分はただ粛々と仕事をするだけだ、と開き直れれば、楽になるのだろう。
以上のように心理面、行動面から3点の対策法を挙げてみた。
・遠因ともいえる認知の歪みの修正
・苦手な場面を避ける行動の実践
・現状を肯定する諦観の追求
これは私が罹患している双極性障害(Ⅱ型)の受容と対策の実践の流れと、だいたい同じような方向性だ。
精神疾患を抱えて生きていくうえでの病気の捉え方、寛解へ向けての実践は、つまるところ同じような指針に帰するのかもしれない。
薬が処方されても、薬だけでは治らない。多くの身体疾患のように、医者に任せっぱなしでは治らないところが、精神疾患の難しさなのだと、身をもって感じる毎日なのである。
(了)