脇見恐怖(症)とかいう面倒くさい傾向のこと
中学2年生の頃から、教室の席に座って、正面を向いて黒板の板書を見るのが苦手になった。
非常に見づらくなったのだ。
視力そのものが低下したわけではない(眼鏡を掛けだしたのは大学生になってから)。
黒板を見ようと前を見たときに視界に入る、両隣の席の同級生の視線が気になるようになったからだ。
私自身はノートを取るために板書に視点を集中させたいのに、なぜか横にいる人間の視線(というより、人間の目そのもの)が気になってしまい、そっちのほうに自分の視線が行ってしまっていると感じる。
一方で、ノートを取るには黒板の文字を読み取らないといけないから、黒板も注視しようとする。
結果的に、横にいる人間に対して中途半端に視線をやってしまい、それが傍から見ると「なんかあいつ変な目で見てくる」「睨んでくる」というような感じに映るらしい。
まあ、実際にどう見えているかは客観視できないので分からないのだが、12年前に事務員をやっていたときに、別の部署のベテラン職員で、私の部署によく来て、同年代の職員と仕事のやり取りをしていた人から、飲み会の席で私を名指しして「こいついつも俺のこと睨んでくるねん!」と言われたことがある。半分は冗談じみた口調で、周囲の上司や同輩たちはただ笑っているだけ、すぐに話題は別のことに移っていったので、その場は流れてしまったが、(やっぱり、睨んでいるように見えたのか……)と内心ではショックだった。私自身、そのベテラン職員は好感も嫌悪感もない「どうでもいい人」だったのだが、頻繁にこちらの部署に来て視界に入り込んできたので、それで視線が行きがちだったように思う。
昔は、この視線にまつわる変な過敏さが理解不能だったのだが、今は、視線恐怖症のひとつ、脇見恐怖の傾向なんだろうな、と自分で納得するに至っている。
引用の通り、脇見恐怖の症状は「社交不安障害(SAD)」の一種で、視線恐怖症の一形態である。
私の場合、双極性障害(Ⅱ型)は確定診断が出ているが、SADの診断が出ているわけではないので、あくまで傾向があるという認識なのだが、この脇見恐怖は生活上のあらゆる場面で、必要のないストレスにさらされるきっかけになっていると感じる。
・道で他人とすれ違うのが苦手
他人が前方から歩いてくる場合、こちらも歩いていると、100%他人の視線を気にしてしまうので、見たくもないのに他人の眼球のほうに視線の一部が行ってしまう。で、相手に不審に思われるのが嫌なので、目を反らしつつ、あくまで前を真っすぐ見て自然に歩いているように見えるよう動こうとするのだが、結局中途半端に相手に視線をやってしまっている感じ。
で、かえってこちらが先方に変な視線を送っているように見えてしまう場合がある(と思われる)。実際に道端ですれ違った人に、「自分の視線はどういうふうに見えましたか?」と聞くことはできないので、あくまでこちらの想像なのだが、私に近づいてすれ違うときに目を伏せたりする人が多い(気がする)ので、時には変な目つきに見られているのかもしれない。
ただ、実際のところ、歩行者は他の歩行者なんてほとんど気にしていないはずなので(特に、歩行者が複数人で会話している場合など)、大概は思い過ごしなのだと思う。かかりつけの心療内科医からも「普通の人間は自分のことで精いっぱいなので、あんたのように終始周りを気にしてなんかいない。そう思って、なるたけ気にせんとき」と言われるし、日常生活で不安感や緊張感を和らげる薬を服用しているので、何にも頼ってなかった中高大学生の頃よりはすれ違いのストレスはマシになっている。というか、席を自由に移動できない中高生の頃なんて、よく耐えられたな、としみじみ思う
・道で他人を追い越すのが苦手
これも原理は同じ。追い越すまでは他人の後姿だけが見えるので楽なのだが、追い越す瞬間に横並びになってしまい、隣人の視線が視界に入るのが苦手だ。特に、前方が一人歩きの女性の場合、追い越そうと少し早足で歩くこと自体、先方に(変な男が後ろからついて来てる!)と思われるのではないかと勝手に不安になる。これは視線以前の自意識過剰というか、まあ考えすぎなのだけれど……。前方が一人の男性や複数人の人達の場合は、早足で歩いて追い越す瞬間に目をつぶって先方の視線を瞼で遮り、サッと追い抜くことで対処している。一人の女性の場合は、広い道ならば反対側の歩道に移動して、できるだけ先方を視界から遠ざけて追い抜くことにしている。十分な距離(車間距離ならぬ人〝間〟距離)を開けて追い抜けない場合は、追い抜くことを諦めて、一度道を引き返し、時間を置いて先方との距離を十分に取って追い抜かなくても目的地に行けるようにしたり、脇道に入って遠回りをしたりして、前方の女性を回避するようにしている。こうやって文章にしてみると、馬鹿じゃねぇのwwwと自分でも思うのだが。実際これくらい気にしてしまっているからタチが悪い。勿論、急ぎの用事でどうしても追い抜かないと目的地に間に合わない場合などは、走って前方歩行者を追い抜くことにしている。この走って追い抜くというやり方は結構効果があって、横並びになる瞬間が少ないと、それだけ視線を気にしてしまう時間(つってもマジで一瞬なんだけどね……)が減るのでだいぶ楽になる。私は急いでなくても駅や地下街を結構走るのだが、ぶっちゃけ、他人の視線をなるたけ気にしないためなのだ
・男性用小便器が苦手
上記の追い越しが苦手なのと同様に、他人と横並びになる状況はたいがい苦手なので、一列に並んだ男性用小便器の場合、真横でなくても、同じ列に一人でも人間がいると、緊張して尿をうまく出すことができない。しかたがないので、人が多い駅などでは、小便だけでも必ず個室トイレに入るようにしている。小便器に誰も並んでいなくて、トイレの外にもあまり人通りの気配がない場合は、急いで小便器を使うのだが、運悪く誰かが来てしまうと、まったく尿を出せなくなるので、小便を終えたフリをして涼しい顔で手洗い場に行ってトイレを出て、別のトイレへ行くことにしている。馬鹿じゃねぇのwww。本当に馬鹿みたいなのだが、実際に他人と横並びだと小便が出ないからしゃーない。私は街中や駅構内、商店街、職場、旅の行き先やホテルなど、あらゆる場所に関して、どこにトイレがあるか、どのトイレが比較的すいているかをなるたけ把握し、他人の利用が少なくて小便器を使いやすい〝行きつけ〟のトイレを日々開拓している
三つ挙げただけでも無限に書けるんだよなあ……。
この他にも、苦手に感じるシチュエーションは無限にある。
・映画館で横の列に人がいると落ち着いて映画に集中しにくい
⇒見づらいけどあえて他の人があまり座らない先頭席に陣取る。人気作で前方も人が多い場合は数週目まで待って、観客が減ってから見に行く
・学校の授業のような、机を並べて隣に人がいる状況が苦手
⇒趣味での講演や講義などの場合は、オンライン講座が利用できるならそちらを利用する。リアル講義の場合には、できる限り横の他人を気にしないように、定期的に目を瞑ったり、配布物を凝視したり、前方のスライドや板書を見るより講師の声から学ぶことに注力する
・スポーツ観戦が苦手
⇒両隣りに人がいるのはきついので、なるべく人が空いていて、かつ席を自由に移動できるタイプなら比較的マシ。かつては趣味のプロ野球観戦で、比較的客が少なかったパ・リーグの試合をちょくちょく見に行っていたのだが、千葉ロッテもオリックスもすっかり〝人気球団〟になってしまって客が多いので、ここ数年は球場に観戦に行けなくなった
などなどなど。
まあ、いろいろあるのだが、つまるところ、他人が存在する環境下はたいてい苦手なのだ。
結論としては、家の中にいるか、マイナーな山の登山で人間のいない自然の中に入って一人でいるなどするときが一番安心なのである。この視線の過敏さは、共に過ごす家族に対してだけは一切発動しない。家族に対してだけは、どんな自分を見せても大丈夫だという安心感があるからなのかなあ。病的な部分とかも引っくるめて。他人からどう見られるかを気にしてばかりで自信のない自分。常人に擬態するために本来の自分を殺して虚実ないまぜの役柄の殻を被った作り物の自分。素の自分を出したら孤立するのは過去の経験上わかっているから、ずっと真人間を演じている感じ。だから、自分の日常の演技が周囲から「まとも」に見えるかどうかをずっと気にしている。でも、演じることはめちゃくちゃ疲れる。誰だって、自分の役割期待に応じて演じているんだろうけれどさ。私の場合、他人からどう見られているかということが、自分の存立の基盤になっちゃってる。極端な他人本意が他人の目に対する執着の根源で、脇見恐怖も自己、他己視線恐怖も本質は同じなのだと思う。
とはいえ、人間社会で生活する上では家にも山にも引きこもり続けられないので、いろいろと対策を練っては、できるだけ苦手な場面をやり過ごせるように工夫をしている。
また、この症状は双極性障害の波の影響によって、気になるレベルが大いに変化する。同じ他人とのすれ違いでも、100%のストレスを感じるときもあれば、10%くらいのストレスで収まるときもある感じ。体調次第なのだ。体調次第で本当に変わる。
軽躁状態で〝傍若無人〟になったときは、言葉の通り、傍らに人無きが如く、ほとんど周囲の視線が気にならなくなる。そういう意味でも、軽躁状態は本当に心地よい状態なのだ(まあ問題がいろいろあるから、この状態は厄介なのだけれどね)。
酒に酔っている場合も、あまり気にならなくなる。
脇見恐怖の双極性障害の相互関係とか、さまざまな対処法とか、その辺についてまた、文章化してみたい。
文章化すると、どんな悩みも少し楽になる。
小説にしろエッセイにしろ二次創作にしろ、こういう雑記にしろ、結局私は、生きていくために必要に迫らせて文章を書いているんだよなあ。
誰かが読んでくれると嬉しいし、今は無理だけれど、自分の文章で身を立てられたらもっと楽しいなあと思う。現実は厳しいから思い通りにはいかないけれど、私は生きるために死ぬまで書いていこうと思う。
(了)