木村カエラさん天使説とキリスト教の分裂
皆さん、こんにちは。
先日、大好きなアーティストの一人である木村カエラさんのライブに行ってきました。
今回のライブはライブハウスで行われ、自分はその中でも前から5列目だったのでカエラさんをものすごく近くで見ることができました。カエラさんのパフォーマンスから感じ取れる神秘性、MCでの話、立ちっぱなしのファンやダイブするファンに「大丈夫?」と声をかけるなどの行為から滲み出る優しさを見てて、私の頭にはある疑問が湧きました。
「木村カエラさんは、天使なのではないか?」
これはファンにしかわからない感覚なのでしょうけど、本当に天使だと思っちゃうんですよね。そんなことを考えていたら、「そういえば、世界史でイエスが神か人かを巡ってキリスト教の宗派が分かれていったって習ったような。」と、ふと思いました。なんだか当時の人の気持ちがよくわかる。。。
ということで、これを機にキリスト教の分裂を調べてまとめてみました。
まず参考にした書籍、動画、サイトは以下の通りです。
茂木誠先生の書籍については、私が受験生だったころに買ったものなので今よりも相当古いものとなります。
まず、キリスト教の前にユダヤ教のおさらいです。ユダヤ教は一神教であり、その唯一神はヤハウェと呼ばれます。そして、ユダヤ教にはたくさんの律法がありました。そこで、律法を守るという形式的なものよりも、心から神を信じることが重要だ言ったのがイエスでした。つまり、イエスはユダヤ教徒であり、ユダヤ教の改革者でもありました。あれは食べてはいけない、これは食べてはいけないなど縛られ、苦しんでいた貧困層はイエスの言説に賛同するようになり、勢力は拡大していきました。そこで、当時の皇帝は革命に対する恐れから、イエスの処刑を命じました。十字架にかけられ、ロンギヌスの槍で脇腹を突かれ、死に近づく中で、イエスは言いました。
「わが神、わが神。どうして私を見捨てられたのか。」
さて、イエスが亡くなった後、生き返ったということがあったとされ、「イエスこそが救世主だったのだ」という信仰が生まれることでキリスト教が成立するのですが、キリスト教にはある矛盾がありました。キリスト教も一神教の立場をとっています。しかし、イエスは「わが神」と死ぬ前に言っています。イエスが神だとしたら、自分に対して「わが神よ」と言っていたのか、あるいはイエスは神ではなく人間で、やはり神はヤハウェのみなのか。これを巡って、宗派が分かれることになります。(カエラさんが天使じゃないのかと思ったときに、頭によぎったのはここのお話です。)
このままだと、キリスト教が大分裂をして収集がつかなくなるので当時の皇帝はキリスト教徒や学者に話し合いをするように求めました。
第一回目はニケーア公会議。テーマは「イエスは神か人か」。イエスは人だと主張したアリウス派は少数派となったため追放され、北進しゲルマン人に布教をしました。
第二回目はエフェソス公会議。テーマは「マリアは神の母か、人間か」。マリアは人だと主張したネストリウス派が少数となり追放され、東進し、ササン朝ペルシアや唐で布教し、唐では景教と呼ばれるようになりました。
第三回目はカルケドン公会議。テーマは「イエスに人性はあるのか、ないのか」。当時の皇帝は、イエスに人性を認めることで、人間の自分でも神の代理人になれるという思想的な根拠が欲しかったため、イエスに人性も神性もあるとしたアタナシウス派を正統と認め、イエスには神性しかないとするコプト派を異端として追放しました。コプト派は南進し、エジプトで布教をすることとなりました。
さて、この正統とされたアタナシウス派は現在のカトリックであるのですが、この宗派は三位一体説を唱えます。すなわち、唯一神ヤハウェとマリアのお腹に宿った聖霊とそこから生まれたイエスは同じであるという考えです。うーーーむ。そうすると、やはり死ぬ間際に言った「わが神よ」は誰に対して言っていたのかがわからなくなります。三位一体説を取るなら、イエスが自分で自分に言ったことになりますよね。この矛盾を受け入れられるかどうかでキリスト教を信じられるか信じられないかが決まっていくんでしょうね。
今回は、木村カエラさんの話から飛んで、世界史の話をしました。全く関係なさそうなものの類似点を見つけるのって面白いですよね。全く別の点と点が線でつながるという感じが何とも言えない快感ですね。
今回の世界史の話は、学習参考書をメインの情報源としました。大学・大学院等でキリスト教を深く学んだ人からしたらまとめ方が雑に見えるかもしれませんが、そこはどうかご容赦ください。
それでは今日はここまで。
以上