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カリスマ性がない02(清濁併せ呑む力をつけたい)

お元気ですか。ツギハギです。
前回、カリスマ性の源は「人の好き嫌いをしないこと」にあるのではないかと睨みをつけました。

物事の好き嫌いをしないということは、清濁併せ呑むということだと思うのですが、どうでしょう?

清濁(せいだく)併(あわ)せ呑(の)む の解説

心が広く、善でも悪でも分け隔てなく受け入れる。度量の大きいことのたとえ。

デジタル大辞泉

私は無駄に、過剰に、矛盾に高潔なところがあります。

困っている人を放っておけない(仮に当人が助けを求めていなくとも)

弱きを助け強きを挫く(挫くを通り越して擦り潰そうとする)

飲む打つ買うをしない(嘘、飲む。あと買いはしないけど相手を自分に継ぎ接ぎするためのセックスはする)


この、過剰で矛盾した正義感のようなものは上手く磨けば…いや矯正すればカリスマ性に繋がる気がするんですよね。
きっとあなたにもある。私たちはきっとそういうものを持っている。

いわば今は「清濁併せ呑む」のうち、清いものだけ受け入れようとしてるんだ。
これじゃガッハッハオヤジにはなれない。
なりたい訳じゃないけどカリスマ性とガッハッハオヤジの育成ルートは序盤は一緒な気がする!

だからこれから街に繰り出してなにか濁った物を呑み込んでこようと思います。
論理が飛躍していると思いますか?私は思います。

何をするかまだ決めていませんが、家にいても人生経験は降ってこないものね。
どうしようかなあ。バーはたまに一人でふらっと行くし、別に濁った場所でもない。隣にどんな人が座るかにもよるけど。
ナイトクラブ…?キャバレー…?

発想が貧困だ!
10年以上夜の街で酒を飲み続けてきましたが、本当に酒しか飲んで来なかったのがバレますね。
あたしゃ世間知らずの坊っちゃん(三十路過ぎ)だよ。

ということで、やっすいヒレ肉のシチューを作り終えたら繁華街に行ってきます。
行った先で何か思うことがあれば、ここで書くかもしれません。

ではまた。

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