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note始めました!

みなさんはじめまして。写真家の熊田誠です。
社交ダンサー、バレエダンサー、サラリーマン、写真家、これまでの失敗と挫折の人生を語りつつ、今後のnoteと関わり方を書きます。

失敗と挫折の人生

貧しかった少年時代

福島県いわき市内郷の市営住宅に父、母、私、弟の4人で暮らしていました。
父が車の板金塗装業に従事していて母は専業主婦。
世帯年収で300万に届くか、届かないかくらい。
当然、周りに住む市営住宅の人々も似たような生活水準で、酒に酔って奥さんに手をあげるオジサン、事あるたびに家に出入りする男が違うオバサンなどパンチが効いた人たちに囲まれていました。
そんな環境もあってか、近所のその子供もそれなりに荒んでいて、貧乏人が貧乏人を貧乏でイジる、小学校の登校時間になると上級生にエアガンの的にされたり、割と早い段階でイジメを経験しました。

ところが、小学校中学年くらいになると腕力がついてきて、高学年のお兄さんなら力づくて黙らせるくらいに。
自分に敵意を見せる相手には噛み付く。
いつの間にか、今度は自分がイジメっ子になっていたのです。
中学校に進学すると不良行為がエスカレートし、何度親と学校に誤りに行ったり、怪我をさせた相手の家に誤りに行ったことでしょうか。
恥ずかしい話ですが、私の本質は心の弱い臆病者なんだろうなと思います。

人生の転機は社交ダンス

私の両親は社交ダンスがきっかけで結婚しました。
1980年代は社交ダンスブームで、父と同年代の社交ダンサーでダンス教室を経営された方も何人かおられて、たまたま父に連れて行かれたダンス教室で出会った先生の娘さんが年上の美人で「このお姉さんがいるなら行きたい!」と不真面目な理由でダンスを習うこととなりました。

まだこの頃は、競技社交ダンスの若い世代が比較的少なかったため、中学校卒業前後にはアマチュアで福島県代表、東北選手権5位、全国大会に出場することが出来きるようになりました。
町の喧嘩で怪我でもしたら大会に出でれないと考えるようになった私は、この頃から少しつづ考え方が変わったような気がします。
また、中学生のテスト期間中を除き、ほぼ休みなく教室に通って練習したり、鏡や床掃除、ゴミ出し、お客さんへのお茶出し、団体向けレッスンのお手伝いなどお客さんとしてレッスンに来ているというより、雑用をやるからそこにいさせて貰っているような身分でした。
社交ダンスとの出会い、両親の愛情に恵まれていなければ日の光や自由を感じるような場所にはいなかったと思います。

バレエとの出会い。東京、海外へ。

社交ダンスにおける身体能力の底上げのため、高校生の頃からクラシックバレエを始めました。
一般的にプロバレエダンサーを目指す人は3歳からバレエ学校に通います。
大きな理由として、体が柔軟に動く幼児期から骨格や筋肉形成を意識したトレーニングを行う事でバレエを踊るための身体をつくります。
既に骨格矯正は不可能な年齢でしたが、地方で社交ダンスをやることに成長の伸びしろを感じなくなっていた私は、バレエにのめり込んでいき高校卒業と同時に東京都目黒区にあるチャイコフスキー記念東京バレエ団に入団します。


プロバレエダンサーとしての夢破れUターン


高校生から始めたバレエダンサーが重要な役を踊らせて貰えるほどバレエの世界は甘くなく、入団して2年位はむしろバレエの基礎を学ばせて貰っていました。

「有名な東京バレエ団にいて凄いね」と言って貰えるのですが、東京バレエ団が海外公演でヨーロッパへ遠征に行く際、たまたま男性を多く必要とする演目があったので数合わせ的に団員の募集枠が一時的に増えていたのです。

外部のクライアントワークでの一枚(演目 ジゼル)


バレエ団のダンサーのお金事情を少しお話しすると、私のように一番下層のヒエラルキーにいるダンサーは1ステージ1万円ほどです。
月に6回公演があれば6万円。
チケットノルマもなく、吉本芸人よりはマシですが、一般のお教室のお子さんと相手役で踊ったり、ダンススタジオのバレエ講師を担当したりして、それでもお金が足りないときは夜な夜なカラオケ店でアルバイトをしました。

23歳の時に収入の好条件を求めて新国立劇場バレエ団への入団試験を受けましたが不合格。
「自分には才能がない!地元に帰ってサラリーマンをやろう!」とアーティストとしての夢が破れていわき市にUターンすることになりました。

10年間のサラリーマン生活

さぁ、地元いわき市に帰って来たがどうしようか?

身体表現しか学んでこなかった私は勉強が出来るわけでもなく、特別なスキルもなく、ハローワークで彷徨っていたところ、求人窓口担当の職員さんから「こんなのどう?」と教えてくれたのが市内商工会での臨時職員の求人でした。

東京にいた時、バレエダンサーはフリーランス、バイト先の友達は開業したりと彼らに共通していたのが、スキルがあるけど経営管理が苦手ということ。
帳簿をつける、決算・確定申告をする、人を雇ったらハローワークや社会保険事務所に行く、補助金の申請をする等々、一般的に面倒でやりたくない仕事だけども自分が詳しくなればどこかで友人の役に立てる日が来るのではないか。
商工会は商売をしている方向けの経営支援機関なので、学べて安定した給料が入るありがたい職場でした。

商工会在籍時、東日本大震災・福島第一原子力発電所の事故を経験しました。
市内特産品の販路拡大を担当してた私は、風評被害払拭を目的とした都内での物販イベントなどに度々出展していました。
福島の食を県外の方にお届けするのは、応援されたり、心無い言葉をかけられたり色んな感情を受け取ったことを覚えています。
震災があったからこそ人との繋がりについて改めて考えさせられたり、マイナスとなった福島をプラスに変え、次の世代にバトンを渡すためには現役である自分達の世代が能動的に動くしかないのではないかと思うようになりました。

超アナログな人間がカメラを持つ日

商工会は長い期間ひとつの町にいることができず、3年とか5年とかの節目で転勤の話がある日突然きます。
海が近くにある四倉町商工会に配置されていた私は、四倉町の商店街の人情味溢れる空気感が好きだったし、自分が言い出しっぺのやり残した仕事もあり、転勤を断りましたが折り合いがつかず商工会を辞めることになりました。

そこから、縁があって地元工務店の総務部に転職します。
小さな会社は労務、法務、営業支援、広報何でもやります。ちょうど社内で住宅用のパンフレットとHPをリニューアルする話があり、写真の素材が必要ということになりました。
もちろん、未経験者の私が撮影や業者との打合せを担当することになる訳ですが、機材も撮り方も全く分からない!
むしろ、機械音痴な上にクリエイティブとは縁遠い生活を送ってきたので困ったものです。
神頼みのYOUTUBE様で「写真 撮影 上達」など検索してみるとオススメで出てきたのが、ユーチューバーで写真家の西田航さんでした。

西田さんは30年近く商業カメラマンをされてきた方で、芸能人やアーティストなど様々な有名人をこれまで撮影されてきました。近年はユーチューバーとしてカメラ機材のレビュー、撮影技法について動画配信されたり、写真家としては年間に4冊という異例なペースで写真集を出版、写真展の開催をされています。

2020年の夏頃、私は西田さんの運営されている西田塾というオンラインサロンで写真を学び始めました。
サロンの目的は主に、西田さんが約30年間で得た写真に関する技術やノウハウを短期間で学び写真家やプロフォトグラファーの輩出、コンテストなどで入賞するものでした。
月に1000枚以上撮ること、写真をSNSに投稿し続けること、コンセプトブック(擬似写真集的なもの)を作る事、今となっては当たり前ですが、当時は夢中になって取り組んでいました。
建築写真撮ることをきっかけに始めた写真でしたが、いつの間にか写真表現の世界にハマっていきました。きっと表現すること、動き続けることを体が欲していたのかもしれません。

遅咲きの写真家

写真を撮る上でプロかアマで区分けするとしたら、写真に関わることでお金が日常的に発生し生活が出来たらプロと言って良いと思います。
写真の機材は最低装備でも150万くらい、スタジオを持たないスチールカメラマンですら揃えると300万くらいはかかります。
投資した機材費を回収しようにも名のないカメラマンに撮ってもらうような人はまずいませんし、仮に依頼があったとしても赤字レベルのクラウドサービスの仕事ばかり。
夢は大事ですが、お金が無ければ夢は途絶えることを若い頃の失敗で経験しています。

まずは、34歳の中年のおっさん「熊田誠」を多くの方に知ってもらうこと。
そこからカメラマンではなく、写真家を名乗り始めました。
写真家といえば、名のある写真コンテストで受賞されたりしている方など思いイメージしやすいところですが、私個人の解釈では公の場に写真作品を出し続ける人のことを指します。例えば、写真集を出版して販売したり、写真展で多くの方に見て貰ったりすることです。
蜷川実花と言えば花の写真。森山大道といえば荒めのノイズのストリートスナップ。
というようにまずは、多くの方に「この人と言えばこの写真」みたいな撮影分野が必要でした。

撮りたい写真だけ撮っていても誰も共感しませんし、何を題材にするかがとても重要です。
色々と考えた末に、福島の日常を切り取ったストリートスナップを写真集や写真展で表現しようと決めました。

震災から10年以上経って、一部で自分の生まれ育った土地に帰れない方はいますが、全体としてみれば日常生活を取り戻したと言えます。
一方で県外の方から、この当時でも私のSNSにあるスナップ写真のコメント欄に「福島で繁華街に出れるのか」「海で魚釣りは出来るのか」とありました。
同じ写真を見ていても違った捉え方になっていて、ボヤけている、はっきりと伝わらない様が霞のように感じ、この霞が晴れることを祈って2022年3月に写真集「霞が晴れたら」を出版しました。

1st写真集「霞が晴れたら」下記サイトURLで販売中

これが私の写真家としての最初の一歩となりました。

なぜ、今更noteを始めるのか

一見すると、写真と文章は全く別の表現に思います。

最近になってようやく気づいたのですが、写真、文章、映像、空間演出など写真展ひとつ開催するにも表現の引き出しは無限にありますし、クリエイティブやアートと言われる分野は通ずる部分があります。

今の私は、有名な写真家になりたい訳という訳でも、たくさんお金が稼げるカメラマンになりたい訳でもなく、この福島という場所で多くの方々に価値のあるエンターテイメントをお届けしたいと思っています。
良い映画や素晴らしい舞台芸術を観終わった時に感じる心がいっぱいになる感じ。
そんな時間を提供できる日を夢見ています。
その為には、写真表現の更なる高みを目指しつつ、文章、映像で伝えることを習慣づけていこうと思い、まずはnoteで言語化することを始めました。

写真と同じで、軸をブラさず毎日のように書きまくればいつか文章表現と呼ばれる域に達するのではないかと思っています。
当面は、熊田の日本語練習の場になりそうですがお付き合いいただければ嬉しいです。





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