半世紀前から普通の人生に挑戦して、普通のおばあちゃんになった車椅子ユーザーの物語52
「寒いからな、気をつけて帰れよ」
翌年の秋のことです
家族4人と母で恒例の軽井沢へ向かう車の中です
「きれいだねぇ」
「あ、ほらあの木もきれい」
窓の外には色づいた木々が徐々に増え始めていた時に
母の携帯電話がなりました。
「あ、〇子だ」
「もしもし」
「うん、うん、うん」
実はこの頃、父は腰痛を訴えていて、病院通いが続いていました。
この日は検査結果が出ることになり、受診の予約が入ってしまったのですが
「きっといつもの通り、軟骨がすり減って、神経を圧迫してる痛みって言われるよ」
と、妹が父に付き添ってくれることになっていました。
検査結果の連絡だな
と思い、耳を澄まします。
どうもあまりよくなさそうな様子です。
「わかったけど、引き返せないし、大丈夫でしょ」
「明日帰るから」
と母が電話を切りました。
「どうだったの?」
検査結果は「がんの疑いがある」ということでした。
病院で話を聞いた後、実家に戻り、父を一人置いて帰らなければならない妹
一人でつらい夜を過ごしたであろう父
すぐにでも飛んで帰りたかったであろう母
楽しいはずの軽井沢の夜のことは何も憶えていません
翌日は急いで帰りました。
父の入院と闘病、母と妹の看病が始まりました。
入院先を決めるときに「大学病院にいい先生がいるから」と
言ってはみたけれど
「そんな遠い病院誰が面倒を見るんだ」
と言われ
「私が見る」とは言い切れませんでした。
情けないことに、私は何もできず、何も言えず、
ただただ気をもむだけしか出来なかったのです
父は実家の近くの病院に入院し手術と放射線治療を受けることになりました
本当に何もできず、病院へ行ってもベッドがとても高く、
痛みで苦しんでいる父をさすってあげることもできないのです。
話かけたくても、遠すぎて声も届きません。
なんとか父と話がしたいと考えて、病院の売店へ行き、紙コップと糸とセロテープを買い、糸電話を作ってみましたが
うまくいきませんでした。
父は痛み止めのモルヒネのせいで意識もあまりはっきりせず
私が病院へ行ってもあまりわかっていないのではと思っていました
ある夜、いつもの通り仕事の帰りに病室へ行くと
父はベッドを起こして座っていました
妹がふざけて
「じいじい、この人わかる?」と私を指さすと
父はあいまいな笑みを浮かべて首を横に振りました
「わからねぇ」
妹は驚いてすぐに
「なにふざけてるの、お姉ちゃんじゃない」と笑ってごまかしていましたが
私は、ショックで何も言えませんでした
ところが、面会時間が終わり帰ろうと上着を着ていたら
父が私の名前を呼んで「○○子、寒いからな、気をつけて帰れよ」と以前のように気遣ってくれたのです。
それが、父の私への最後の言葉となりました。