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『俺の旅立ち』             井の頭公園でカースケとオメダ、グズ六が待っている。

受験の季節真っただ中だ。

勉強が特別できた方でもない、田舎の公立中学校で中の上、そんなところだろう。みんなが行く、近くの公立高校の普通科に入学した。
同じ高校に2つ上の姉がいた、寒くなってきたころだった、姉が東京の女子大に推薦入学で行くのが決まったという。
東京・・・とうきょう・・・トウキョウ・・・。
あの井之頭公園がある、東京!

当時3人の若者が演ずる「俺たちの旅」を食い入るように見ていた。
東京、井之頭公園は僕にとって「俺たちの旅」そのものだった。
中村雅俊演じる「カースケ」がギターを肩に掛け、オメダやグズ六と歩くシーンは今でも覚えている。あの、カースケやオメダ、グズ六がいる東京にネーちゃんが行くのか。

俺も井之頭公園で青春したい!
当時、「青春したい」なんて思っていなかった、当たり前だが思っていなくても青春だった。

母の一番親しい従妹が東京にいた。比較的裕福な商家で育った母は、時々都会に行きたかったのだろう、僕たち子どもを連れて何度か東京に遊びに行った。その家には同年代と、少し年上の男の子がいて、代々木公園界隈で遊んでもらったのを覚えている。なーんだ、東京の子も同じような遊びをするのだなぁ、と思ったものだ。ただ、人の多さにたまげた。

そんなに教育熱心な家ではなかったが、東京の大学に行きたいと両親に言うと、「どうぞ」そんな感じで拍子抜けした。

さて、これからが問題だった、はたして入学できる大学があるのか。
当時はまだ全国的な共通試験はなかった、模試で自分の実力を知り、アリャリャと頭をかかえつつ、なんとか偏差値を上げる努力をしてみるが、苦手な英語の単語と熟語を覚えられず四苦八苦していた。
なのに、国語は唯一全国で戦える成績だった、現代国語はもちろん、古典の単語や熟語もすんなり頭に入ってくるし、受験レベルなら読解もできる。
同じ言語なのにどうしてなのか、今も英語は苦手だ。

なんとか滑り込める東京の大学はないものか。
当時は一般入試前に学校推薦の試験があった、指定校推薦じゃないから内申書とテストや面接で合否を判定した。
実はこの推薦入試を含め、私立大学12大学の試験を受けた、回数は13回。学部は外国語を望く文学部のみ。

あの頃日本経済はイケイケで、男子は経済・経営学部を目指すのが当たり前、教師志望でもないのに文学部志望は珍しかった。
蛍雪時代の東京私立大学の偏差値表を、自分の実力範囲を定規で上下に線を引くと、なんとか引っ掛かりそうな文学部のある大学がありそうだった。

どこを受験するか、何校受けるのかは両親も知らなかった。ただ哲学科はやめとけ、そう父に言われた。高等教育を受けていなかった父からみると、難しい事を考えすぎてノイローゼになる、そう言う理由だった。
それ以外はなにも言わず受験料を出してくれた、たしか料金は7~8千円だったと思う。8千円×13、104.000円だ。
浪人して経済的な迷惑をかけるよりいいか、そう思っていた、全くボンボンである、感謝。

さて12校、13回、試験を受けた。宿泊は、姉のアパートと親類の家にお世話になった。姉のアパートには、同郷の友人と二人で泊まり(姉は帰郷していた)それぞれ受験会場に向かった。友人は、2校受けて帰っていった。

ネットがない時代は、受験番号を校舎前に貼り出した。
受かるだろうと思っていた大学の掲示板に受験番号がない、校舎を一周して落ち着いてもう一度見てもやはりない。トボトボと駅に向かった。
風邪で熱があっても受験した大学は、滑り止めのつもりだった、ボーとして試験問題を理解できない。ここも当然落ちた。

結局、一校何とか網に引っ掛かかった。
偏差値は正直だった。

井の頭公園でオメダやカースケが待っている。待ってろ、東京!
何も怖いものはない、驕りの春の美しきかな。そんな時もあったのだ。

今朝、新聞のコラムの「人性に決着をつける」この文言に目が焼き付いた、と同時にあの頃を思い出して、一筆。










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