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無為自然

静かな場所に行く。

人の多い世の中を好まず、閑所に静かに独居するのがいい。

禅語に出てくる、楽寂静。

人が集まれば各々の言葉に煩わされる。

楽寂静を修することで、確かに憎しみや恨み、諸々の事案からは解放されるかもしれない。

だが、それは同時に執着心との別れも告げている。

その対象は人にも当てはまる。

それは、果てなく、私の置き心を揺さぶる。

情愛から無縁になる寂しさを知る。

俗と称されても、相反するふたつの心を認めては駄目なのだろうか?



道元師曰く

世の中は沼である、入りすぎると溺れる。

と、答えた。

節制して生きて何が見えたのだろう?

即ち、心を無と成せたのだろうか?

何事かに溺れても、それ、また人也、ではないのか?

だが、その甘さを抱えながら眺める、静黙などはあり得えず、私などには計り知れない精神の極みがあるのだろう。

とてつもない大きい意味を持つ教示なのに、俗まみれの私が、近付きたく妙に惹かれる。



空間に浮く思考は実に気持ちいいものだ。

結実する心は現実を大気の中に同化させるかのように甘美でさえある。

生き易い事、楽しいかな。

私の私感は修禅者たちを顰蹙させるだろう。

私はお構いなく、相反する精神の矛盾を楽しむ。

人の起こす感動は捨て難い。

これなくして生きるに値しないとも思う。

森羅万象、別離よりも出会う事に意味を持たさたい。

瞬間に生きて、瞬間に死ぬ、それが、寿命なるものの正体だと思っている。

この世は綺麗事だけでは馴染まないよう出来ている。

様々な思考が篩(ふるい)に掛けられ、善かれ悪しかれ整理される。

整理されて大人になるのだが、この私。

生まれつきの天邪鬼なのに、何故かしら、不似合いとも取れる、この静慮な潔さについつい憧れてしまう。

言葉の修得にあらず、心の修得である事の難解さも承知だ。

言葉で形を作りすぎてしまえば、逆に、歪になってしまう事も経験から学んだ。

作為に陥らず、誘惑に負けない自信などはまったくない。

平然と言い張る私はお察しの通り黙信の信仰には向かない。

でも、それらの精神には、常に敬虔な態度で接しているつもりだ。

成し得えた人への憧憬が常に胸にある。

なのに、私は今日も俗の沼に居る。

この煩わしく騒がしい中に、何らかの答えあるなら知りたいものだ。

醜い過去に引き摺られては、引き返すばかりの阿保に。

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