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ミュージカル 憂国のモリアーティOp.5 感想

基本的に現地観劇では放心しっ放しというか、
全体的にその場で感情移入ができなくて、
ほとんど虚無の状態だった。申し訳ない…。
(後に時差で襲ってくる感情に悶え苦しんでいた
のは秘密)
現地で観ていると、脳が情報を処理しきれずに
フリーズしてしまうのか、面白いのか
面白くないのか、分からなくなってしまう。
こんなに魅了されているはずなのに、
好きという感情すら湧かないから不安になる。
そんな状態でも、感性が打ち震えたような、
バーン!!!という衝撃を観劇している時に
感じた。観劇後数日持て余していたよく
分からない情緒も、東京大千秋楽配信の視聴も
含め、かなり感想が固まったので思い返して
まとめたい。
大体は現地の大阪千秋楽中心の感想。
※ちなみに私は平野良さんのシャーロック・
ホームズが好きなので、ほぼ焦点がシャーロック。

死の概念


個人的にこの芸術的表現にウワーッ!と
なったシーン。周りに骸骨と化した
死者(亡霊)がウィリアムを取り囲む。
荘厳に美しく狂気に映える。
民衆といい、骸骨の亡霊といい、
アンサンブルさんのゾンビ的な動きが大好き。
こう表現するのか!という純粋な驚きを
与えてくれるこのミュージカル、
本当に趣向が凝らされている。
抽象的な概念の視覚化は興味深かった。
(西洋絵画的手法と聞いて、なるほど!だった)

それはそうと全体を通して、ウィリアムの
希死念慮の描写はかなり直接的で、現実の
うつ病に伴う希死念慮まで想起してしまった。
私自身、あの不穏さは得意ではなかった。
Op.5の病的な世界観がショッキングでは
なかった、と言えば嘘になる。
毎作品、常に雰囲気が変わって観客を
飽きさせないモリミュだけれど、
今作はその中でも特に異質な印象を受けた。

過去作リプライズメドレー


Op.3までは配信でしか観ることが
できなかったので、シャーロックの
「真実」の歌声が生で聞けて良かった。
この歌い方のクセ!動き!歌い方ー!!
ザ・平野シャーロック。
Op.1時点での変人感の強い、あの異彩な
雰囲気のシャーロックが見れて、
Op.4とは違う雰囲気の演じ分けが見事。
(作品番号が進むにつれ、段々カッコいい
変人から可愛くなっていった…)
そして、恐らく私がモリミュで一番衝撃を
受けたのは、平野さんの感傷的な演技によって
生み出されたシャーロックの悲哀だと思う。

「我らのホワイトリー殺すなど」
「決して許せぬ悪の所業」

ウィリアムが民衆に責められるシーン。
急に曲が転調し、緊迫感あるメロディーと
共に、相棒であるジョンの語りが入る。
段差の多い舞台装置から駆け降り、
飛び降りて来る名探偵。
「どんな理由であれ殺してはいけない」
という自身の信念を打ち砕くか否か、
選択の時。

「俺はジョンを救う、リアムの望みの為、
俺はこの引き金を──────!!!」

この瞬間、銃声がなぜか酷く痛々しく
聞こえて、思わずハッと顔を歪めてしまった。
撃たれた人間より、引き金を引いた方の
人間に対して胸がとても痛んだ。
声も手も震え、息も乱れた主人公が痛々しい。
重い。とても重い。Op.4でも思ったけれど、
ここまで心情を深く掘り下げて、倫理を
追求した表現になるとは思わなかった。
(特に東京の千秋楽のシャーロックなんて、
過呼吸特有の呼吸音が聞こえていたから、
演技の威力が凄まじかった。)
でもその方がきっとウィリアムの価値観に
共鳴したシャーロックが描けるし、
とても良い表現だと納得した。
何より人間らしさが表現されていて
大好きだった。
私は人を殺したことはないけれど、
不安感や焦燥感、その感情は知っている。
私はシャーロック・ホームズではないけれど、
どうにもできない苦しさに共感できる。
感情は経験したことがある。
生きる上で感じる苦しさや辛さ、
それをミュージカルで表現されたことに、
自分が救われた気がした。

ハドソンさんに集る民衆の曲


「ホームズを!」「ホームズを」
「シャーロック・ホームズを!!!!!」

初めて見た時から、ミュージカル感があって
凄く好きだった。楽しい!

「ホームズさんはッ、まだ戻らないのッ!?」

「留置所にいるって本当なのか〜?」

市民とハドソンさんとの掛け合いもテンポが
良くて、やっぱりモリミュの民衆の曲は
いいなぁ…!としみじみ。ただ段々
シャーロックが、民衆からの英雄視による
「光にさせられている」感が否めなくて、
複雑な気持ちにもなった。
アンサンブルさんが描く、当時の大英帝国。
上品かつ繊細な、歌唱、舞踊、演技が
十九世紀末の英国に輝かしく、懸命に生きる
民衆を余すことなく表現している。
これぞ「モリミュ」の世界観。

一幕最後の

全員のヴォカリーズの後。静かな一瞬の間に、
シャーロックが後ろのウィリアムに向けて
ゆっくり手を伸ばした瞬間。からの暗転。
絶対捕まえてやる。
落ち着いた静かな決意の。救ってやる。

余韻。

何とも言えない「間」。静の中の動。
この余韻が凄くて、劇場では大切に噛み締めた。
配信映像では分かりにくかった気がする箇所。
現地の特権。

ジョンとの曲


「人は脆く 儚いもの
生きるよすがなど 泡沫の幻」

シャーロックの歌詞。
言葉の響きも文学的でとても綺麗。
ミュージカルの独自の、脆く儚い精神性を持つ
シャーロックが歌った瞬間、頷いて
拍手したかった。
「ミュージカル 憂国のモリアーティ」の本質。
現実でしか描けない人間の本質の表現を重視する、
崇高な創作姿勢。
意義のある稀有な作品だと思うし、
素敵な歌詞だな…と聞いていた。

221B訪問


夜の照明、本当に夜の様ですごく好み。
そして今作も絵画風の背景、お洒落で
世界観に合っていて、好きだな〜!と。
(Op.4でもシャーロック&ジョンのデュオ、
「この空の下」の青空や街の風景が
大好きだった。)
東京千秋楽では声が落ち着いていたけれど、
観劇した現地ではドアをノックした
ウィリアムに対して、シャーロックが明るく
幼なげに「どうぞー!」と言っていて
可愛いかった。
他にもウィリアムが黒の手紙について
「開封せずに捨てても構わない」と言った後の
「はぁ!?何だよそれ!!」
というセリフ、原作より感情がこもっていて
とても好きだった。可愛い。
「Why me?」のセリフ、どう来るか…と
思っていたら音が伸びていて意外。
現地観劇時では立って歌っていた、
この「どうして俺なんだ」のくだり、
東京千秋楽では二人が椅子に座っていて
少し印象が変わっていた。
全体的に切なげで、その悲哀がまた愛しい。

シャーロックvsウィリアム


二人が橋の上で対峙してからのシーン。
現地では割と悲痛な表情で、訴えても
聞いてもらえない、どうして、という
シャーロックの困惑や、ウィリアムに剣を
向けられた悲しみが伝わってきた。
東京千秋楽は、落ち着いて真面目に訴えかけ、
どちらかというと原作に近いような印象。
(逆に手紙の場面で号泣していて更に感傷的
だった分、より意志が固まったのかもしれない)
どちらかというと、現地の演技の方が好み。
現地のシャーロックは、上に書いた通り
必死の様子で、体格の良い殺気100%の
ウィリアム様(!)に殺されそうでハラハラした。
シリアス感溢れるバリツvs剣の殺陣に
ドキドキする。足で剣を弾く殺陣が
カッコ良くてお気に入り。

自分と相手の存在肯定


死に誘われるウィリアムを
引き止めようとするシャーロック。
突如響き始める不気味な亡霊の
ヴォカリーズに、こちら側も死の暗さと
重さに飲み込まれた気分だった。
この一連のシーンの中で、
私が現地観劇の時に最も強く感じたのは
シャーロックの悲劇性だった。
現地の大阪千秋楽は、幼い少年が
泣きそうになるのを必死に堪えてるようにしか
見えなかった。
お前がいなくなるなんていやだー!と
訴えるかのように、迫り来る死の存在に声を
震わして絶望していた。
見ていてかなり精神的に辛かった。
原作以上に強調されたシャーロックの激情。
救おうとする意志。
何が彼をそこまでそうさせるのか。
なぜこれほど、ウィリアムの死に対して
執着や焦燥があるのか。
人物の前提として、シャーロックの孤独が度々
描写されている。
(正典の内容からも解釈できる。)
Op.1、ハドソンさんにノアティック号の
見取り図を見せても不自然な点が分かって
もらえず、肩をがっくり落とすシャーロックとか、
周りの人間が彼の思考に追いつかない為に、
苛立って「明らかだろ…!」と少し声を
荒げるシーンとか。
ジョンもハドソンさんも寄り添ってくれる。
とても優しい。
しかし頭脳においても、思想においても、
唯一無二で特別な存在はウィリアム・
ジェームズ・モリアーティただ一人、
というのがモリミュの中では明確に描かれる。
シャーロックの認識の一番大きい転換点は
犯罪卿が「義賊」であることを確信し、
ウィリアム個人の階級制度の考えを知ることが
できた「一人の学生」編があるOp.3だと思う。
そもそも、ミュージカルのシャーロックは
「国を憂う」という志に対して非常に
共鳴している印象を受ける。
シャーロックのソロにも民衆が登場し、
「人の世」のイメージがほぼ毎回表現される。
機密文書の窃盗を犯すことで命を狙われる
アイリーン。彼女も国を憂いての行動だった。
殺人を犯し貴族と民衆両方から忌み嫌われる
「義賊」の犯罪卿。
彼の価値観で、最も素晴らしいと思える
思想故に深入りして、(しかし殺人は良しと
しない上で、)命を賭けて
「人の世を想う気高い人物」を救おうとする。
それが世の為、人の為、そして何より国を憂う
当人の彼女/彼の為になる、と固くシャーロックは
思っているし、その感情は一見、利他的に
見える。でも違う。
誰だって、自分が価値を認めたものは愛したい。
価値を認めたものを愛さなければ、
それは自身への裏切りであり、自分自身の
価値観すら疑わなくてはならない。
既にウィリアムはOp.5の時点でシャーロックに
とって精神的な「価値の象徴」である。
自分を理解する、自分と似た価値観の、
同じ心を持つ彼が民衆に糾弾されてしまえば、
シャーロック自身の価値観が侵害される
危険がある。それは許せない。
「お前もそう思ったのか、実は俺もなんだ。」
そんな経験が生まれて初めてだった。
とても嬉しかった。
「荒んだ世界」に風を吹かせ、
自身を孤独から救ってくれた存在。
自分は間違っていない。あいつが、
あの「人の世を憂う」思想は正しい。
例え人を殺すのがいけなくても。
”人を救う“思想だけは。
Op.4で禁忌の殺人を犯して、
「憂国」は彼の第一の信条になった。
ウィリアムと同じように人、ひいては国を憂う
気持ちで罪を犯すことがどれほど苦しいか
知ったのだった。
だから、シャーロックは一生懸命ウィリアムを
救おうとする。ウィリアムの死は、自分の
認めた”価値“の死であり、シャーロック自身の
存在意義にすら関わってくるからだ。
(なぜなら、それが信条というものである。)
つまり、シャーロックは自身が「救われる」
為にウィリアムを生かそうとしていた。
どうしても生きていて欲しかった。
そうでなければ、自分自身が救われない。
過去に救われた孤独な自分は、また孤独に
なってしまう。自分が美しいと認めたものが、
壊れてしまう。無くなってしまう。
すると、内的な世界の”価値(とその存在)の
肯定“ができない。それだけは嫌だ。怖い。
Op.4の観劇後からずっと考えていて、
気づいた時に、こんな人間らしいことある!?
と私はめちゃくちゃ喜んだ記憶がある。
(なぜか人間味とか深い意味にとても
興奮する傾向がある)
自身を肯定してくれた存在を肯定する為。
自身が肯定できる存在をもう一度肯定する為。
「救う」行為はエゴ。
それでも、そんな人間くさいところが
本当に魅力的だと思うのだった。

ところで、モリミュの全シリーズ本編を通して、
シャーロックのソロには
「人の世は無数の糸もつれ合う」
「人の業が渦巻く」「人の生きる世界」
「人が生きれば」「人は脆く儚い」
といったように、「人」が主語の歌詞が
頻繁に登場する。
まるでいつも、人間自体が持つエネルギーの
可能性を信じているかのように。
実は、シャーロックがウィリアム個人を
愛したいというより、その相手の背後に見出す
壮大な「人の世」を認めたい、肯定したい、
という願望が隠されていたのではないか、
とも感じた。
世に適合するのが難しく、社会との繋がりを実感
できない。孤独感を抱えていたシャーロックは、
ウィリアムという相手を通して初めて、自身が
生きている世界を丸ごと肯定できる。
だから、シリーズ中のシャーロックの
行動動機は一貫して「自分と世界の存在肯定」
だったのかもしれない。

100%の光の人間など現実に存在しない。
ロンドンの光とされる名探偵にも、精神の
不安定さを併せ持つ、闇の部分がある。
対照的に闇とされる犯罪卿にも、人々を
救っている光の部分がある。

「お前一人、死なせてたまるかよーーーーーッ!!!!」

心の底からの絶叫。人として生きる故の
ありったけの哀愁。悲劇性を帯びた究極の
搾り出すような苦しい叫び声。
ショックだった。
まさかここまで情感のある表現だと
思っていなかったから。
平野さんの表現するシャーロックは
どうしてこんなに哀しいのだろう?
人間誰しも持つ弱さや脆さが浮き彫りに
なっていて、とても強く訴えかけてくる
力がある。そこに存在する人間として、
最もダイレクトに感情が伝わってくる。
そもそも私はここ最近、物語に感性を
動かされることが少なくて尚更新鮮だった。
また、この瞬間のシャーロックの
飛び込む行為そのものがなぜかまるで、
「後追い自殺」のように見えてショック
だった、というのもある。
ミュージカルでは、私の予想より
遥かに現実的な恐怖を感じさせる、
重い死の描写だったからかもしれない。
それに、お前が死ぬんだったらもう生きて
いけない、くらいの絶望した気持ちも感じた。
このシーンで受けた衝撃が忘れられない。
暗闇の中、ただ響き渡る亡霊の
ヴォカリーズがおぞましい。

生と死の間


パッと暗転が開け、二人が立っていた時に、
ホッと安心した。これで彼らはお互いを
救うことができる。少なくとも、もう大丈夫。
向かう先が──────死だとしても。
このシーンがとても幻想的で不思議な感覚
だった。ピアノのメロディとヴォカリーズが
美しい。故に残酷。このプロジェクション
マッピングの必要最低限の使い方が上手い。
「落ちてる線」が漫画的というか、
表現がシンプルでとても良い。
あれほど暗かった不穏なヴォカリーズが、
段々と天国へ召される為の聖歌のような調子に
変化する。神聖な幸福。生の退廃。死の幻想。
「死」の表現の中で、バッドエンドから
ハッピーエンドに覆していくような、そんな否定。
そして「やっと捕まえたぜ」の歌詞。
「や」「っ」「と」「つ」「か」「ま」「え」「た」「ぜーーー!!」の「ぜーーーー!!」
の音程が衝撃的だった。こう来る!?みたいな。
理屈抜きで感性を揺さぶるこの音程。
少し前まで虚無状態だったのに、
予想外の橋落ちのシーンで動揺していたら、
ここは更に放心してしまった。
予想できる印象の範囲を超えていて、
一体どうやったらこんな音程、思いつけるん
だろう...!?と頭を抱える。
(作曲家のただすけさんには、尊敬でしかない。)
死に向かいながらも嬉しそうに、無邪気な
子どもの様に笑うシャーロックが悲しかった。
※配信、ヴァイオリニストの林さんこと
“裏シャロ”は“表シャロ”とは反対の、
苦しそうな表情で演奏されていて、追い打ちで
ダメージを受けた。

このウィリアムを捕まえた瞬間の、
心の底からの純粋な喜び。彼に追いつけた
嬉しさと、応えてもらえた喜びから飛び出た
言葉の「やっと捕まえたぜ」。
この歌詞(セリフ)は、探偵である
「シャーロック・ホームズ」としての、
人生最大の喜びの表明でもあるんだろうな、
と思った。胸が締めつけられて、とても苦しい。
でもこれでシャーロックは救われたんだと
思うと、良かったと安心できた。
大千秋楽の配信、抱き締めているシャーロックが
ウィリアムに縋っているような印象で、
抱き締められて抱き締め返すウィリアムも
解釈一致だった。
少し離れて語り合うように歌ってから、
もう一回、頭を守る為に抱き締めるの、
とても情緒的!最高。

以下追記:2024年1月

Op.5円盤の特典スペシャルアングル映像を観た。
この収録回の橋落ち場面のシャーロックは
自分の死を悟りつつも、死ぬのが心底辛そうな、
泣き笑いの表情と歌声だった。切なさMAX。
本当に、回によって全く違うのが罪だと思う。
漫画やアニメだと1パターンの世界線しか
生まれないから、演技は奥が深い。

追記終わり

死に歓喜する民衆


現地では民衆の笑う姿に、少し違和感を感じた
程度に留まっていたけれど、段々考えている内に
ゾッとした。どうしてあれほど、
シャーロック・ホームズを応援して
光としていたのに、死が喜ばしいのだろう。
これまであれほどの悲劇性を伴いながら
川底に落ちていった主人公を見て、喜んだ
人々って、人間って何なのだろう。

「名探偵は 命を賭けて 
邪悪な悪魔を退けた」

単純だった。ホームズは民衆の英雄だから。
英雄の犠牲は誇らしく、
それには賛辞が送られるべきだから。
いや、分かる。このミュージカルの
民衆の気持ちは分かる。至って自然。
犯罪卿の死を喜ぶことも。
自分達が明るい未来を、幸せを掴み取った、
ホームズは英雄だ、悪魔は死んだ─────
無理もない。やっぱり民衆の立場と
彼らの目線ではそれが真実でしかない。
「名探偵」と「犯罪卿」という立場の記号で
しか、民衆は彼らを見ることができない。
でも、勝手に祭り上げられる「英雄」ほど
滑稽なこともない。英雄の死は悼むより
賞賛されるべきなのか。
悪魔を倒してくれた─────
ホームズという英雄への賛辞と
モリアーティの死に対する歓喜。
どちらにせよ両方の死を喜んでいることに
変わりはないのだと。人間の神格化とか、
人を英雄視しがちな集団心理の危うさを
よく描けているな、と思った。
私なら名探偵が死んだことに、
ショックを受ける人間でありたい。
でもあの時代、あの民衆の、人々のうねりの
中に生きていたら同じように喜んだのかも
しれない。それが恐ろしかった。

ベンチのシーン

「全てが白紙なんだ」のウィリアムの
透き通る様な歌声がとても綺麗だった。
メロディが切ないな…とぼんやり思った。
最後にしてはとても切ない。
「生きようリアム」と無邪気に語りかける
シャーロックがまた切ない。
原作未読の友達ともOp.5の配信を観たのだけれど、
その時にこのシーンについて
「シャーロックとウィリアムが死んでいるのか、
生きているのか分からない」と言われた。
実は、私も引っかかっていた部分だった。
現地でこのシーンを見た時、
彼らは原作通りに生きている、と思った。
その上で具体的な場所が描かれない
ミュージカルの演出について、
「これはどこで彼らが生きているのか、
分からなくて想像の余地があっていいな」と
思っていた。どこかの国の、日の光が降り注ぐ
緑豊かな公園のベンチかもしれない。
「どこで彼らが生きていようが関係なしに、
彼らは二人で生きる」という表現だと
考えていた。だからあれは、
「どこかのベンチ」でしかない。と。
でも何回も配信を観ている内に
疑問に思えてきた。
この二人は本当に生きているのだろうか。
原作ではアメリカの病院の屋上だけれど、
ミュージカルでは場所も時間も
明示されていない。
「この光の果てに」の歌詞の白い光が、
天国に差す光のようにも見える。
メロディといい、照明といい、よく考えれば
タワーブリッジから落ちるシーンに続いて
かなり現実感が無い印象も受ける。
全てから隔絶された世界。
彼ら二人以外、何もない。
もちろん最後に余韻を残す為に明示しない、
というのも十分に考えられるのだけれど。
不安感でいっぱいになりながら、
いやモリミュならやりかねない、
と散々悩んだ。こういうところが怖い。

もしかして、落ちる時に生死を
超越してしまったのか。
なぜなら彼らの体は確実にテムズ川の底という
死に向かっていたにも関わらず、あれだけ
死の概念として描かれていた亡霊は
消え去ったではないか。
「高所から落ちる=死」のシーンでありながら、
「亡霊=死の象徴」を打ち消した。
タワーブリッジから落ちている間のシーンは、
「死」が二人の“死ではない”「生」として
描かれていた。
※もちろんウィリアムが希死念慮を打ち消す
表現とも捉えられるけれど、それでも亡霊が
“死の象徴”であることは間違いない。
別の角度で表現上の意味を考えた。

それに続くこのシーンは、もはや生死すら
問わない表現なのかもしれない。
どこであろうと、いつであろうと。
生きているとも、死んでいるとも、それすら
関係の無い、不可侵の二人だけの精神世界を
表現したかったのではないか─────。
彼らは生きようとする、という事実だけで
十分だったからこの情報量なのかもしれない。
(だから、現実での彼らの生死は確定していない。)
多義的に解釈できる結末が好きなので、
考えてワクワクしていたら、事件が起こった。

「屋上」って言ってる…!?
ルイス役の山本さんがこのインタビュー記事で
「屋上のシーン」と言及されていて、
あれこれ勝手に考えていた私はひっくり
返ってしまった。

ただ私が個人的に、あのシーンに対して
色々考えていただけのこと。
それに原作の屋上のシーンだとしても、
そもそも成り立つので問題は無い。
一個人の、あくまでただの可能性としての
表現の考察。
とはいえ、自分の解釈が気に入っているのも
事実ではあるので、胸に留めておくことにした。
これはこれとして大事にしたい。

以下追記:2024年2月9日

2024年3月号月刊誌「アニメージュ」にて、
脚本•演出家である西森英行氏の
インタビュー記事が掲載。
ベンチのシーンの結末の演出の意図が
明かされた。

原作を知っている人は
「ニューヨーク編のあのシーンだな」と
思ってもらえたでしょうが、知らない人は
「二人は死んじゃったのかな」
と思ったかもしれません。
でも、そう見えてもいいんです。
「生きようと思った意志が、確かにそこに
あったよ」という提示さえできていれば。

令和6年 Animage 3月号   


良かった!自身の解釈と大体合っていたから、
飛び跳ねて喜んだ。人それぞれに違う印象を
抱かせるモリミュの演出意図...!
原作勢や未読勢に関わらず、この観客側に
解釈の自由さや想像の余地があるところが、
とてつもなく気に入った。
全くこれだからモリミュは、と言いたくなる。
私は結末にできるだけ、複雑な要素を
見出したい。ラストシーンの場所も時間も、
解釈は単純に原作通りと決めつけずに、
「生死を問わない精神世界」かつ「天国」
ということにしておこう、と決めた。
その方が生と死の概念が曖昧で興奮する。
メリーバッドエンドにしよう。
(それにあの主人公2人は、自分たちが
目の当たりにした世の闇の余韻を
引きずりつつ、光の中で未だ少しそれを憂いて
泣いているといいな、と思う。
自分と民衆、様々な業に翻弄された後の
精神的なショックは大きそう。
まだそれについてゆっくり悲しんでいいんだよ、
シャーロック、ウィリアム!という感じ。)

他にも「死の象徴」や「”生“の痕跡を残したく
なる衝動」の話は、私のテンションが上がって
はしゃぎながら読んでいた。
なんて解釈が深くって、飽きさせないんだろう!

あと、この記事を読んでいて許せなかったのは、
犯罪卿が世界を変えようと奮闘した結果について、
一過性の「市民と貴族が手を取り合うブーム」
を巻き起こしただけに過ぎない、
と書かれていたこと。シンプルにグロい。
原作つきにも関わらず、独自の思想がこれほど
入るのには驚いたし、本当に珍しい。
観客としてはやられた!という悔しさと、
この稀有な表現に出会えた喜びで胸が
いっぱいだった。
「その表現、ありなの!?」と思っても、
「ありだよ!!」とモリミュは自信を持って、
堂々と可能性を示してくれる。こういう
深い「問いかけ」が大好きだな、と思った。
感じた自分の怒りも含め、礼賛したい。
礼賛〜!!

↑一人の観客として、とても嬉しいポストだった。

追記終わり

まとめ

「生きる」という残酷さが胸に刺さった。
現地観劇後も配信視聴後も、ずっと苦しくて、
切ない気持ちを引きずっていた。
正直モヤモヤした。
完全なハッピーエンドとは思えない。
国を憂いて人を憂いて、殺人を犯したが故に
倫理に直面して、全部跳ね返って来たそれを
背負った主人公。罪を背負わずに苦しみから
幸せになれた民衆。その対比。主人公二人が
全ての世のしがらみから解放されたのと
同時に、業の犠牲になってしまったような
気がして、ただただ苦しかった。
でもそれは心の琴線に触れたという証拠で、
苦しいけれど大好きだった。

ただのフィクションではない、私達と
無関係ではない、虚構だったはずの世界に
鮮やかに映し出された現実。
原作とのズレの間に、透けて浮き彫りになった
真実。
このミュージカルは、私が全く知らない
物語だった。
向き合うたびに、自身の解釈が緻密に
深められていく感覚がたまらなかった。
Op.3では嘘と真実、Op.4では善と悪、
Op.5では生と死。相反するはずのものが、
曖昧に渾然となっていく。既成の絶対的だと
思えた概念が壊れて、混沌としてしまう。
二元論で語れない現実の複雑さ、曖昧さ。
人生観とか価値観とか、精神の根本的な
ところに響いて、絶対最後までこの作品を
見届けなければ、という気になってしまった。
たくさん考えさせられた。楽しかった。
豊かな独創性に富み、深い作品思想と
矜持を持って表現された、この素晴らしい
ミュージカルのことを私は忘れない。
いつかまたこんな面白い作品に出会うことが
できたらいいのに、と切に願う。
ウィリアムとシャーロック、
そして当時、大英帝国を生きた全ての人々に。
人の世に幸あれ。
ありがとう、ミュージカル
「憂国のモリアーティ」。

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