Diabetesと道長
大河ドラマ「光る君へ」にて藤原道隆が糖尿病の症状を訴えていたのをみたので糖尿病についてまとめてみました。
私の記事ではミスもあると思います。下の方におすすめの書籍やHPを記載しておきますのでそちらを参照してください。
糖尿病の概要
まずは糖尿病について自分なりにまとめてます。
糖尿病(Diabetes)は、血中のブドウ糖が正常より多くなる病気のことです。
原因はインスリンの作用不足です。インスリンが十分に働かないこと。インスリンは血糖値を下げるホルモンであり十分作用されなければ血糖値を下げれなくなる。
この作用不足については、2通りあります。
インスリン分泌能がなくなり、または著しく低下し血糖上昇・低下に対応できなくなった(インスリン分泌不全)。
もしくはインスリン分泌できているが、インスリンの効果を感受できない(インスリン抵抗性)。
この2つが同時に起きることもあります。
他の考えとしては遺伝因子、環境因子の考え方があります。
基本的に初期は無症状が多いですが、頻尿・口喝による多飲を認めます。
血糖値が高い状態が何十年も続けば、血管を傷つけ将来的に心臓病、脳疾患、腎臓病、足の壊疽などの重い病気になってしまいます。
また、血糖値が著しく高いと昏睡状態を起こすことがあります。感染症も治りにくくなります。
これらの合併症を予防することが糖尿病の治療目標です。
糖尿病の歴史
最古の記載
エジプトのパピルス(紀元前1500年頃)が糖尿病の最古の歴史と言われています。「尿がたくさん出る病気」と記載されていました。
紀元100年、ローマのアレタエウスが糖尿病の患者を診察して記載した。
中国での記録
中国の医学書にて「黄帝内経素問(紀元前200年頃)」「金匱要略(2~3世紀)」に消渇(糖尿病のこと)の記載がありました。
この時、食事(大量飲酒、暴食)・肥満と関連されるという考えがあったと考えられます。
隋の時代(7世紀)には、病理・病態をまとめた「諸病源候論」に以下のように記載されています。
近代では
19世紀 フランスとプロイセンの戦争時、パリが敵に包囲され食料難にありました。フランスの医師ブーシャルダが糖尿病患者の症状(口喝、多飲・多尿、心臓症状)が改善したのを発見し、食事量の調節が治療になると考えた。また、彼は膵臓が糖尿病の原因であると仮説をたてました。
さらに年月が経過し、研究が進み仮説が確信となり1922年には犬の膵臓から抽出したインスリンが完成し、糖尿病患者の治療として使われました。
藤原道長と糖尿病
日本では平安時代の記録(御堂関白記録、小右記)から藤原道長に糖尿病の症状があったと言われています。
藤原道長の家系は糖尿病の家系として有名でした。
家系図にあるように彼の伯父、兄、甥に糖尿病と思われる症状があり症状が出てまもなく亡くなったとあります。
遺伝的に糖尿病になりやすい方だったと考えています。
生活に関して
実際はどうか知りませんが、当時の貴族の一般的なスケジュールはだいたい以下のものだったと思います。
食事
食事は基本的に豪勢で、宴会も頻回に行われていました。
全部食べていたわけではなく、残りは持ち帰ったり、召使に与えたりなどしていたと思いますが、いっぱい食事が出ていると食べ過ぎるということもあったのでは・・・
当時の主食は強飯のてんこもり。てんこもりに盛れば盛るほどもてなしの象徴だったようです。
酒はアルコール度数5~6%ほど、糖質多めの甘い酒でした。
運動
貴族の運動で蹴鞠、狩、打毬などがありました。
ドラマ「光る君へ」では道長は活発で運動量も多そうです。
出世してから活動量は一気に減ったと思われます。
移動手段は牛車、歩行量はほとんどない人も珍しくありませんでした。
清潔面
当時は蒸し風呂で日々の汚れを落としていっていました。
暦や占いで不吉であれば、風呂は控えることが多かったそうで、爪切りも占いでするか決めていたほど。
そのため、かぶれや感染などで皮膚の症状に悩む人が多かったそうです。
人間関係
政敵との衝突にて道長、孫の皇子が呪詛される事件があり命の危険を何度も経験していたと考えられます。
また、娘の彰子とも微妙な関係になっていたのでは(あくまで想像)。定子の産んだ皇子の養母となっており、彼をないがしろにする道長に対して批判的な態度だったようです。ドラマでもどうなるか楽しみなような。
道長は遺伝因子、環境因子、どちらにおいても糖尿病になるリスクを抱えていたと想像させられます。
道長の症状
小右記にて51歳頃の道長が「口が渇きやすく、水をよく飲む」と記載があったようです。浸透圧利尿がこのときにあったと推測されます。
他に同時期、実資の日記では以下のような記載がありました。
御堂関白記でも人の顔の判別がつかないときがあったと記載されています。
この50歳代の時点で糖尿病性網膜症があったのではと言われます。
他に、すでに白内障があり糖尿病により悪化していた可能性もあります。
この頃、「この世をば我が世と思う望月の・・・」の有名な和歌を歌っていました。
実は満月はぼんやりとしか見えていなかったのかもしれません。
時期不明ですが、御堂関白記ではたびたび「胸の痛み」を訴えていました。狭心症、心臓合併症の可能性があります。
でも、当時の第一治療といえば・・・祈祷。
当時は困った症状があった時は呪いや祟り、物の怪の仕業と考えられていましたし、そちらで対応していたと思います。
晩年は下痢症状に悩んでいたそうです。これは糖尿病による自律神経障害と考えられます。
亡くなる数日前には皮膚にできものができたようです。
皮膚の感染症、蜂窩織炎などが考えられます。
神経障害により痛みや違和感に鈍くなり発見が遅れたのでは。
皮膚に膿がたまり、血管内に細菌が侵入し敗血症となり多臓器不全になり、1027年12月4日 62歳で亡くなられたと考えました。
糖尿病の症状が出てから10年程で最期を迎えました。
今も同様の方はいると思いますが、それでも20世紀にインスリンが開発されてから糖尿病の方の寿命が長くなったなと感じます。