noteはじめました。バイクライフ編

こんばんは。Michiです。
自分自身のことや、過去のことなどをまとめてみようと思いnoteのアカウントを作って早半年。さすがに動き出そうと思います(笑)
というわけでオートバイ編です。

私とオートバイ ガキ時代~大学入学まで

オートバイに乗り出すきっかけを思い返してみると2つ、心あたりがあります。1つは父親がバイク乗りだったこと。記憶に定かではありませんが、大型免許を取ってYAMAHA V-MAX(初代)に乗ってました。僕も乗せてもらったことがありますが、音がバカでかくやたらぶっ飛ばすので半分怖い思いをしていた記憶があります(笑)
国道18号で130㎞ぐらい出してたな…💦

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%BBVMAX

wikipediaより引用


もう1つは新しい景色を見るのが好きだったこと。
子供時代は自転車で区内(小学校時代は特定の学区から出るのを禁止されていた)をくまなく探索したり、アパート横の空き地にオフロードコースっぽいものを作って延々と走ったりしていました。
(なのにオフ持ってないのなんでなんだろうな…)

そんな自分でしたが、高校時代は家庭環境の変化もあり、反抗期に入っていたのでむしろバイクは嫌いぐらいに思ってたのでした。
(ちなみにこのころにピロウズに出会います。これは別の機会に)

そんな高校卒業間近にある漫画作品に出合います。これが最終的に僕とWを結びつけることになります。
その作品は高橋しん先生の「最終兵器彼女」で、世界観からして僕の心を大いに揺さぶる作品でありました。その中で主人公がバイクの修理するシーンがあるのですが、それが"Kawasaki W1"でした。

そんな出会いもあり、学生時代の友人が原付に乗っていたこともあり、僕も原付に乗り出したのです。

HONDA TODAY時代

僕の最初のバイクがHONDA TODAYでした。
彼女は僕の行動範囲を劇的に広げてくれました。といっても、最も遠くまで走って江の島だったり東京の神田まででした。ちなみに当時は弓道部だったので神田にある弓具店まで走っていたのです。
バイクでどこかにいく喜びを教えてくれたのは彼ですが、ある意味で原付の悲しい欠点を教えてくれたのもまた彼でした。

2009年、夏、初めての青切符

当時20歳になったばかりの僕は立て続けに青切符をもらうことになります。1度目は都内での二段階右折不履行。2度目は湘南海岸での赤色灯整備不良。
まあどちらも僕が悪いのですが、2段階右折という原付特有のめんどくささに直面します。(そのあとは守っていたけども)

就活 -そして普通二輪取得へ-

学生生活も4年次になったころ、世間は震災の直後でしたが僕は地元企業に内定を頂くこととなりました。そのころには卒業に必要な単位はほぼ取れていたので(1年次~3年次フル単位でした)時間的な余裕ができました。
そこで原付からのステップアップを図るべく普通二輪を取りにいくことにしました。
そこで浮上するのは”何に乗り換える?”という問題。
今だったらエストレアあたりをチョイスするのでしょうが、当時は無性にSUZUKI車に注目していました。たぶん感染してた
最終候補はGN125HとST250。
悩みに悩んだ結果、ST250をチョイスしたのです。
(本当になんでエストレアが眼中になかったんだろうか)

ST250E納車 そして世界がまた変わった。

2011年6月6日。二俣川の免許センターで無事普通二輪の免許をゲットした僕は6月9日、納車を向かえます。
まるで役目を果たしたかのように僕のTODAYのシートが破れたのが記憶に残っております。
そうして僕はシートの破れたTODAYと引き換えにST250Eを手に入れます。2011年6月9日、上大岡の某大手バイク屋でのことです。

これは帰省して走りに行った時の写真。菅平へ上がる県道での1枚。
地味にハンドルバーエンドを替えていたようだ。

とにかく、排気量・馬力にして5倍になったのだから最初は怖さ半分興奮半分でメチャクチャ楽しかったのを覚えている。たぶん1か月で大した遠出をしていないのに1000㎞以上走ってたんじゃないかな。
そうすると原付では考えられなかった実家への帰省もやってみたくなるし、首都高だって走りたくなる。そうやって新しい景色を楽しみました。

初めてのロングツーリング。そして北海道へ。

納車後3か月。卒業旅行ではないけども、就職後には出来ないだろう北海道へ走った。最初の夜は宮城県登米市でキャンプした。そして風邪を引いた。
熱でぼおっとしたまま北海道へ上陸。風邪のだるさより楽しさが勝っていた。

記念すべきバイクキャンプ初日の様子。見ての通り天気は悪かった。
函館から時計回りに上っていく最中。10年後ぐらいに対向車線を走ることになるとは思いもしていないころ。

当時は旅の仕方もわかっていないので、なぜか小樽で3泊した。風邪でも治そうとしてたのかな?
最終日に地元の若者グループと飲んだ。バスターズなのでピロウズの話をしたら、peeさんの後輩だという方がいて彼らの地元に来たんだと嬉しくなったものだ。
翌朝彼らに別れを告げて僕は北を目指した。

多分脳内で”この世の果てまで”が流れていた

ちなみにこの後は札幌のネカフェで1泊し、青函フェリーで青森へ戻り、1日かけて横浜に戻った。後にも先にも1日で1000km走ったのはこの時だけだ。
卒業するまで、さんざんツーリングを楽しんだのを覚えている。この時、オートバイに本格的にのめり込んでいく。
ちなみに卒業間近の冬に大型二輪免許を取得している。きっとそのうちデカいのが欲しくなるだろう。けどずっと乗り続けると心に決めながら…(フラグ)

就職後 車の購入と悪魔のささやき


その後就職してからも僕はしばらく車を持っていなかったので日常の足としても活躍してもらった。自宅駐車場でぶつけられたり等もあったが、元気に走ってくれた。
社会人2年目となり、いい加減車を持たなきゃな…となり松本は出川にあるディーラーでスイフトを購入。たぶんまだSUZUKIにこだわっていたのだろう。実はナンバーに"916"が入っている、ということが最後の決め手だったのは言うまい。
当時の僕は諸事情から割と貯金をしており、車を購入してもまだ手元に余裕があった。これがいけなかった。
松本は平田にある某大手バイクショップにふらりと遊びにいったときにW800の実車が置いてあったのを見た。軽く冷やかしで聞いた。

「これのエボニーって新車あったりします?」
「在庫があって75万で出せます」
「買います」

こんな具合で気が付いたら契約していたのだから勢いとは怖い。
かくして僕はノリと勢いでステップアップを果たすのである。

W800 憧れの系譜へ

2014年2月3日。
世間は豆をまいたり福を招いたりしていた頃、僕はバイク屋へ向かっていた。
その数日前にはお別れツーリングをしていた。
バイク屋へ向かう道中の無償な寂しさを今でもしっかり覚えている。
ぶっちゃけ特徴がないのが特徴みたいなバイクだが、それがまるでスニーカーのような、どこへでも気軽に乗っていけるよさがあった。
約36000km、世界を広げてくれた相棒に感謝した。
(のちに25万で売られてた)

もちろん、W800で踏み出した最初の一歩も覚えている。あまりの力強さに笑ってしまったから。排気量にして3倍。馬力は2.5倍。トルクは3倍。
これからどんな景色が見えるのだろうとワクワクしたな。


納車直後の様子。まだ一切のカスタムパーツが付いていない。
ちなみに割とすぐにナンバープレートカバーとリアキャリアを装着した。


ちなみにそのすぐ後に大雪になりしばらくお預けを食らったのは言うまでもない。
(コーティングのために三鷹のナップスに預けていてある意味正解だった)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%88%9026%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%9B%AA

wikipediaより

ただしこの時のテンションはやたら高かった模様で、勇気をだして初めてライブを観に行ったりした。ちなみに初ライブはピロウズのこのツアーの東京公演であるからテンションの異常さをうかがい知ることができる。

https://natalie.mu/music/news/113852

音楽ナタリーより引用

10万キロを超えて 今に至るまで

それから早いもので10年がたった。
10万キロを超えたのが2021年の3月3日。

0が並ぶと気持ちがいいよね


今現在で149200km。思ったより遠くまで来た。
しかし、まだまだ走りたりない。
そしてまだまだ僕を遠くに連れて行ってくれる。
10年。
10年で色々と変化があった。
仕事の挫折もあった。心も折れた。
それでも支えてくれた一つの柱がオートバイだ。
だからこそ、もっともっと楽しみたい。
やりたいことは全部やっていくつもりだ。

奇麗な夕陽だろ?
このあとガス欠して8kmほど押すんだぜ。


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