
【今だから言える】三途の川をjogで行き来した中学3年
ゼッケン16-8がワイです。
当時は坊主でした。
なんでこんな体曲がってんだ????
撮ったの親
大変長らくお待たせしました!、!!、!、!
只今合宿に向かう最中のバスで暇なのでこんな記事を書けば暇も潰せるし昔の自分でも振り返れるので、ちょうどいいですね。
今だから話せる
↑
(もう2週間前の話)
6000字弱で過去最大の文字数だと思います。
そういえば2月はバレンタインがありましたね。みんな何個もらいましたか?
僕は0個(義理は除く)←除いても0個
で自己ベストタイと20年連続同じ結果で安定感抜群の結果でございます。
引き続きこの調子で頑張りますので応援よろしくお願いします??????
お遊びはここまでにして。
HNDが人生で一番肉体的にも精神的にもきつかった時期であり
(精神の方が圧倒的にきつかった)
正直何度も死にたくなった。
中学時代を振り返りながら話していこうと思います。
正直あの頃の部活は行きすぎた部分があった気もするし、若くして精神的に苦しんでいる人も少なくないと思いその人たちに向けたアドバイスというか、少し手助けにでもなればと思って書いてます。
私は小学校3年から陸上長距離を始めクラブチームに所属していました。
そのクラブチームも強くて、小学6年生の時は全国小学生駅伝見たいのが大阪万博公園あったのですが県で初めて8位入賞しました。
私はまだまだ弱くて全然メンバー争いに食い込めませんでしたが、駅伝メンバーに入れると日清食品が協賛だったため参加賞として、チキンラーメンのひよこ?がプリントされているtシャツがもらえます。
それが欲しくて頑張ってました。wwww
なつかしいですねーー
そんな悔しさをバネに中学では駅伝を走り、全中駅伝を走りたいと思うのが三年間最大の目標になっていきました。
書いてると泣きそうだわ
1年生
1500
5'27→4'57
3000
10'33
同期では4人中2番目の速さで入部。
1500m5分27秒で入部しまずは通信陸上大会の参加標準記録である4分57秒を目標に練習に取り組みました。
この記録は通信大会が7月中旬にあるため6月の終わりくらいには切らないといけないのですが、
結論を言うと 5'09
はい終わりでーーす、!、
と言いたいところだが、チームとしての目標は駅伝で勝つこと。
県中学校駅伝で優勝すると全国中学校駅伝大会に出場することができるのですが、それは11月の頭にあるため。
そこまではまだ時間があります。
ここで一番きついのは夏合宿。
普段の練習もきついのですが、この夏合宿は練習以外にも食事、私生活までにルールが課せられるため、休むと言っても精神を使っているのであんま休んだ気にはならないですね、
メニューが1日30キロくらい走るのですが、
(今でも考えられん。よく耐えたな俺)
中学生としては多分走り過ぎな気がします。
足が痛いのは当たり前で、練習では集団から離れると、合同合宿だったため色々な監督から怒号が飛んでくるのですが、多分本人を発破しているつもりで行っているのですが、これ結構きついんすよね。
精神的に
そんな1日30キロ近く走る夏合宿を終え、普段の練習も10キロ以上と距離的にはそこまで多くないものの、実はものすごく高く常に全力を出さないとこなせないようなメニューであったり、ビルドアップ走では最後の2キロフリーであったり
(フリーというのは自分の好きなペースで走るのではなく全力で走る区間。自分の好きなペースで走ると後で詰められます。)
キツすぎて、よく夏の練習では毎日のように足が攣ったり、嘔吐してました。
その甲斐もあってなのか、1500mでは4’58まで伸び、チームとしても県駅伝で優勝し全国中学校駅伝に出場。
でも私は補欠にすらなれなかったので、悔しいというか、地方駅伝(北信越駅伝)でも優勝したので
あの時のチームは本当に強かったと思うし、そのチームの一員でいることがとにかく嬉しかったですね。

ここからはスキー
もう一つクロスカントリースキー部に冬は入っていたのですが、そこでは三年間で全国に出場することを目標にしていました。
1年の頃は弱すぎて何も書くことありません。
みんな強すぎて、絶望はしましたが、自分のことをやるだけと頭を切り替えることができていたため、淡々と練習していたことが思い出です。

2年生
1500
4'58→ 4'37
3000
10'34→9'37
一言でいうと
この年は飛躍の年でありました。
何もかもが上手くいってたな
2年になると通信の参加標準記録が上がり1500m 4'30 。
3000mは1〜3年共通して9’45でした。
まー成長期に入りこの一年で身長148から157くらいに伸びたんだっけかな。
そんなこともあり、それと比例してタイムも一気に伸びました。
まずトラックでは通信大会に出場すること。
この年は、駅伝が3000mなため3000mに集中し6月の終わりまでに10'33から50秒近く縮めなくてはなりませでした。
(おいおいできるのか??)
5月からの競技会を経て毎週走るごとに自己ベストを更新し、1年次に負けていた人にもどんどん勝てるようになっていってモチベーション的にもどんどん上がっていきました。
あの頃のワクワク感もう一度味わいたいと今でも思います。
そして、、締切最後の記録会で9'42で突破し、ここまでやってきて良かったという気持ちと周りの人の感謝の気持ちでいっぱいになったし、自分はやればできるんだという高揚感。
この時は県内の2年生でタイムで言うと両手で数えられるくらいの実力になっててビックリ。
キモチィーーーーーーーーーーー!
通信大会ではピークアウトしていたのか、気持ちに呑まれたのか、セカンドベストでほろ苦い記念大会で終わってしまった。
そしてこの一年で力を着実につけてきたため、夏合宿も攣る、吐くは当たり前だったけど、去年よりはキツくなかったし、これをやれば強くなれるというポジティブで取り組めた。
そして駅伝ですよ。
目標は全中駅伝出場。
去年の駅伝メンバーは殆ど3年生だったため学年が上がり、自分がエースとなって出場するはずでしたが。
期待した自分がバカでした。
チームは5位でなんとか地方駅伝の出場は勝ち取りましたが、やはり厳しい結果に。
自分も全然走れてなかった。
学校に帰ってからのミーティングでは、相当言われました。
中には相当怒られた人もいたそうなので。
相当駅伝という自分のチーム競技の理想像とはの違いにショックを受けました。
駅伝はチーム競技ですが、走ってる時は個人なので、仲間の助けは後半の人が頑張ればあるかもしれないですが、そんなことを考えてるようじゃ、監督はメンバーすら選んでくれない。
チームは助け合って成り立つものという自分の中での考えがあったので、個人が責められることはあっていいのか?なんてミーティングを傍聴しましたが、それと同時に駅伝はそういうものなのだと目の前に現実を突きつけられたような感覚になりました。
僕は結構プライドが高くて怒られたくない性格だったと思うので。
(今は中学、高校の時怒られまくったのでなんともないですが)
それから駅伝を走るのは、個人でトラックレースよりも緊張し、恐怖感を感じる様になりました。
そして今年最後の駅伝。
北信越駅伝。
6区アンカー
そして、タスキをもらった時は7.8.9位で同じくらいで貰い、
8位入賞なので、最後の一人になると入賞を逃すことから極度の緊張の中スタートしました。
(いやー結構思い出したくない)
途中何度も相手を離そうとしましたが、結局最後までつかれてしまい。ラストスパートで負けました。
自分の遅さを憎み。チームには申し訳ない気持ちになり何度も謝りました。
これからかな、陸上が少しずつ怖くなってきたのは、
そして冬、スキーシーズン。
スキーはこの年で結構体力もついてクラシカルとスケーティングという種目があるのですが、スケーティングに関しては2年生の中で7番手。全体27位。
15位までが全中出場できるため。去年ご雑魚すぎたのもあり、個人的にはめちゃ成長を感じられる結果になりとても嬉しかったです。
でも問題は最後のリレー。
一人5キロ滑るのですが、僕はアンカーでした。
3位でスタートしたのですが、後方から来た選手に抜かれ4位に。
3.4はメダルか賞状かの境目なので、結構責任を感じる結果になってしまいました。
いやーまたアンカーで負けてしまった。
もーチーム競技は嫌だと思いました。
でもまーーー個人で成長を感じられたので、来年こそは全中に出ようと
よし
3年生
1500
4'35
3000
940
この詩は本当に精神的にも肉体的にもきつかったし、ここがいちばん書きたかった。
目標として、通信は去年切ってるし、標準タイムも変わらないので大丈夫。
そして3000m9'30を、目標にしていましたが、その考えが甘かった。
まず春先の練習から上手くいがなかった。
なんか走れない。
貧血でした。
どのスポーツでもそうなのだが、ジャンプの後に着地をすると足裏の赤血球が壊れる。
また自身暑いのがとても苦手(30度を超えたら偏頭痛を起こすレベル)で、発汗量がとても多かった。
発汗量が多いと汗と一緒にミネラルも出てしまうので、食事を気おを、つけなければなりません。また、暑いと体を冷却するために汗を出すよね?
そのため体の表面に冬の時よりも血液が集中しやすい、消化に血液を回せなかった。そして消化不良で嘔吐。
これは毎年そうじゃないかとツッコミが入ると思うのだが。その時は成長期の代償が来てしまったかなと分析してる。
成長期は貧血になることは珍しくないらしいからな。
そしてトラックシーズンでは自己ベストを更新できなかった。今まで勝っていた人にも抜かれ、自分の陸上の理想像とは程遠くなっていくことそれをどうしようもできないことに、ストレスがきつかった。
そして、親にも怒られて
結果が良くないと、家に帰っても親は顔を合わせてくれないどころか。7時なのにもう寝ていると。
先生にも気にかけてもらえる瞬間は減って、大会でも集団から離れると怒号が毎回のように飛んでくるようになった。
これ結構きつかったし。味方がどこにもいない様な感覚に襲われた。もう何をやってもダメだ。
当時中学生だったので自分では何も考えることができなかった。
夏合宿も2年生の時より走れなくなって、いつもより先生に怒られる、親には今日の練習は良かったよなんて嘘をつくことも多くなっていったし。
なんしろこれしか俺にはできないのかというのがとにかく自分で自分を醜くなり嫌いになってた。
あーどーなっちまうんだろーなー
駅伝シーズンに入り
もちろん狙うは全国中学校駅伝に出場,
これまでやってきた経験を活かして、普段の練習とメンバー選考会を懸命に走ったが、
自分はメンバーに入ることはできなかった。
この時親に泣いて謝った。
チームの結果というと、県駅伝は優勝した。
自分はサポートにまわり、選手がしっかり走れるように各区間の走者がスタートするまの間付き添いに当たった。
彼らは強そうだった。
このチームは負けるはずないと思った。
補欠ではあったものの、選手とら扱われ方が結構違う。
これは1〜3年で共通してあったものだが、走るメンバー以外の選手は、選手より、1〜2時間は早く会場入りし、テント設営などの選手が過ごしやすい環境づくりを行う。
それが終わったらアップをし、選手と同じコースのタイムトライアルを行う。
それと選手のタイムを比較し次の駅伝のための選考材料になる。
この年は優勝したため、その後選手は県内の様々な新聞社などのメディアからの撮影、インタビューがあるのだがそれに自分が参加できないことが辛かった。
中学生の大会だし、県で勝つくらいのチームだっため、選手の保護者をはじめとする町民、先生がなどこんな人も来るのかというくらいに注目された。
そこで、走れない自分がポツンといることで、あー惨めだな
その後の3年生で唯一走れた北信越駅伝では5位と少ししず渋い結果に。
最後の駅伝。
全国中学校駅伝
は走ることができなかった。
(サムネの写真は補員レースになる。)
年末年始に地元の新聞が一面に写真を取り上げてくれるのだが、俺の写真は1枚もなかった。
チームは県過去最高順位(13位 48位中(47都道府県+開催地枠1チーム))

そしてスキー
〜全国目指して〜
クラシカルは10秒、スケーティングは20秒届かなかった。
最終種目のリレーでは1走を務め、他の選手とスキーが絡み転倒。
もう駅伝はやめようと思った。
チームには迷惑しかかけてこなかった。

こんな上げて落とされる三年間だったからから、今の考えて陸上をするといくとこが根付きそれがいまのアイデンテティを作っている気がしてならない。
三年間チームに迷惑しかかけてこなかった、こんな自分だったけど仲間は復活を信じてくれたし、先生には今でさえお世話になっている。
この三年間は全国どの中学校よりも練習したと絶対に言えるし、それが今の自分を作っているしあんなきついことはこの先もう二度と起こらないだろう。
あっこんなものかで終わってしまうのも、過去の自分が頑張って作り上げてきたものだから、あの三年間は経験しといて良かったのかもしれないが、来世になっても経験したくない。
じゃああの時
じゃあ、どうやったら上手くいってたかを考えると今となってもまだ答えがわからない。
今陸上を続けているのはそれを探しているからなのかもしれない。故に3000mの自己ベストは中学生2年生で止まっている。
前の記事にかいてあるように陸上は継続のスポーツ。
あの時駅伝を走った人を入れても今もなお競技を続けているのは自分ともう一人しか知らない。
今もなお陸上を続けてることができてることに感謝し、これからも自分のアイデンテティを見つけ過去の謎、暗黒時代の解明、陸上を通した生涯の研究をしていくつもりである。
結果を出したいけど、辛かったらただ継続するしかないのかもしれない。
中学で強くなっくてもいい。
高校で強くなればいい。高校で花咲かなかったら大学。市民ランナー。
色々な方法や環境を変えることもできるかもしれない。
できたかもしれない。
俺があの時やめなかったの、今タイムスリップして当時の自分を褒めて讃えたい。
そんな暗黒時代がありました。
お疲れ様でした。
ここまで読んでくれた人はなかなかいないんじゃないでしょうか。
この後に書く文章は読んでくれた全体の10%も満たないと思うので、適当に書こうかな
(読んでくれた人すごいですよ)
今のHNDはあの地獄のような3年の上に成り立っているといっても過言ではなく、色々なことにも挑戦できるし、あの経験があったからこの程度で辞めるわけにはいかない。だったり、いつも上を目指すきっかけを得ることができた。
指導者は、結果を求めらられそれができなかったら左遷という世界に今はいるらしい。
でも、陸上だけを教えることよりかは、自分で考える能力、あいさつ、社交辞令を陸上を通して学ばせてくれた今や過去の指導者にとても感謝しています。
陸上だけを上から押し付けてやれば、生徒を伸ばす事は簡単なこと。
だけど部活とはそういうものではない。
陸上が強いから何でもして良いという認識は大間違いである。
何度も言うが、やはり陸上だけを一方的にはいどうぞはいどうぞと材料を持って来て、教えるんじゃなくて、
自分から材料を取りに行く、または作る能力を鍛える指導法で舐めた行動したら叱ってくれた指導者にはとても感謝し、尊敬し、そのような指導をしてみたくもある。
魚を釣ってやるんじゃなくて、釣り方を教えるような応用の効く指導。
なかなか先生の思いが生徒に伝わらないのがネックだが、
あの時何であんな叱り方をされたんだろうと、今になってわかってくるのが滑稽で、成長したのかなと感じるところ

書くの疲れた