論理的思考の限界について考える
論理的思考という言葉が声高に叫ばれ出してから久しい。目まぐるしく変化する現代においては問題解決能力が求められ、問題解決のためには論理的思考が必須であるらしい。しかし論理的思考とはそこまで万能なものではない。以下その理由を述べる。
論理とは?
論理的思考について検討する前にまず論理について検討したい。論理の典型といえば「PならばQである。Pである。ゆえにQである」という三段論法である。ここで注目したいのは「PならばQである」という部分である。論理には必ず前提が必要であり、それに現実の様々な状況を当てはめることで正しさが保証される。「彼は結婚している。ゆえに彼は独身ではない」という論理展開は「独身とは結婚していない人である」という前提に「彼は結婚している」という現実の状況を適用して結論を出している。
論理的思考における前提
ここで私が指摘したいのは、論理的思考において何が論理の前提条件になるのかは必ずしも明らかでないということだ。数学の問題であれば解くための材料はすべて問題文で与えられているので、論理だけで解答を導くことができる。しかし現実の諸問題は非常に複雑であり、結論を導くために必要な前提条件が全て与えられていることなどありえない。多段階の論理展開のためには大量の前提知識が必要であり、論理を考えることよりも前提となる知識を調べるのに苦労する。相関関係と因果関係の違い、必要条件と十分条件の違いなど論理に関する理解が必要なのはもちろんだが、それだけで結論に辿り着くのは不可能である。
非論理的思考法
そこで我々が使っているのが、論理によって結論にたどり着こうとするのではなく、まず初めに結論を定めそれを正当化しうる理由を探していくという方法である。様々な理由を考え、それらが結論に論理的に結びつくかどうか確認し、必要であれば論理を成立させるのに必要な知識を調べていく。このプロセスを結論を変えて何回か行い、そのうち最もうまく論理的なつながりを作れたものを採用する。この方法は必要とする事前知識が少なくて済み、後から調べていけばよいので脳への負担が少ない。普段目にする思考の産物である文章は論理化されているので気づきにくいが、我々は初めから論理による推論をしているのではない。非論理的な手探りの思考がまず先にあり、それらを正当化するための道具として論理を使っているのだ。
終わりに
それを理解せず論理を盲信したり、あるいは根拠として必要な情報が手に入らなかったり時間が不十分であったりして論理による正当化が十分できなかった意見を安易に否定するようでは、よい議論など行えるはずがない。限られた知識、脳のリソースから複雑な現実の諸問題に立ち向かうには、非論理的思考の助けが不可欠だ。