「価値観の押し付け」の擁護を試みる
twitterでの議論、論争を見ていると、しばしば価値観の押し付けというフレーズを目にする。価値観は人それぞれであり他人に自分の価値観を押し付けることは悪である、という考えはかなり広まっている。人の価値観を安易に否定すべきではないのは確かだ。しかし私はこの「価値観の押し付け」という言葉の濫用には弊害もあると考えている。
「価値観の押し付け」について考えるうえで指摘したいのは、価値観の定義が明確に定まっていないことだ。価値観とは一般的に「何にどれぐらい価値を見出すか」と定義されることが多い。どんなに思考を重ねても、万人が納得する絶対的な基準が存在しない以上、最終的には各人の価値観による判断が必要になる。価値観というのは論理的な思考が限界に達したとき、判断の拠り所となる存在である。だがここで問題になるのが、論理的な思考の限界は人によって異なるということだ。ある人にとっては絶対的で議論の余地がない価値観であるものが、他の人にとっては議論の余地があるものだということは頻繁に起こる。さらに価値観は問題に向き合って初めて作られるものであるという点があげられる。これはトロッコ問題を考えると分かりやすいだろう。多くの人はトロッコ問題に向き合って初めて「多くの人を救うために一人の人を殺すことは善が悪か」という価値観を形成するのであって、そのような価値観を事前に持っている人は少ないだろう。この例で分かるように価値観は絶対的な存在ではなく、新たな問題と接することで変わったり、新たに作られたりするものなのである。議論というのは論理的な過程を積み重ねてより最もらしい結論に至ることを目的とするものである。より深い議論を行うためには、自分の価値観を絶対視せず場合によっては自分の価値観を変えるのを厭わない態度が求められるだろう。