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被爆体験記執筆補助で聞いた話

2014年から始めた、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の被爆体験記執筆補助の仕事。昨年、被爆体験談を聞き取った被爆者が百名を超えた。その貴重な聞き取りや後日の交流の中で、印象に残ったエピソード(公開の承諾を得ているもの)をいくつか紹介してみたい。

◆8月9日のデートの約束
昭和20年8月9日。その日の夕方、長崎市新大工町の映画館でデートの約束をしていた女性がいた。相手は兵器工場で働く男性で、その日、工場で被爆し亡くなった。男性の妹の話では「お兄ちゃんは今日(背広の)一張羅ば着て行ったとよ」とのことだった。

◆永井隆と妻緑の「唇を重ねた」の真相
当時、長崎純心女子高に通っていた女性の証言。被爆医師永井隆博士の妻緑は長崎純心女子高で家庭科の講師をしていた。同じく講師をしていた永井隆も時々学校で見かけたという。女性も緑の授業を受けていたが、授業の合間に、生徒たちに向かって、出征前夜に永井隆と「唇を重ねた」ときの話をしたという。その話は、永井隆の自伝的小説『亡びぬものを』に出てくるが、私はこの箇所は創作ではないかと思っていたのだが、女性の証言では事実だったようだ。

永井隆博士

後日、女性から「その時は唇を重ねるなど分からなかったけれど、永井先生もそんな青春がおありだったのですね。戦争の中でもほんのひととき若き女性を思う気持ちがあった。戦場へ行く先生にとって“重ねた唇”を大事なお守りとして立たれたことでしょう」と感想を書いた手紙をもらった。

◆自宅に訪ねて来た男性
ある兵器工場で働いていた女性が、被爆後に山の上の自宅に帰った日の夕方、同じ職場の男性が訪ねて来たそうだ。女性によると、その男性について面識はあるがほとんど口も聞いたことがなかったという。二人は田んぼの前に座り、とりとめのない話をした。夜も遅かったので(女性の父の勧めで)男性は一泊して帰っていったが、数日後に原爆症で亡くなった。

私が思うに、男性はその女性に密かに恋心を抱いており、安否が気になりいてもたってもおられず、黙々と山を登り、女性宅を訪ねたのではないだろうか。ただし、女性の証言では直接そういう男性の言動はなったという。

◆野母崎半島で撒かれた米軍ビラ
長崎市の唐八景から野母半島へちょっと下ったところで、原爆が投下される前、アメリカの飛行機から撒かれたビラを拾った男性の話。そのビラには「日本良い国花の国 7月8月灰の国 坊ちゃん嬢ちゃん用意は出来ましたか 長い眠りにつかせましょう」と書かれていたそうだ。

恐ろしいことに、非戦闘員の子どもたちをも戦争に巻き込み脅すビラだったのだ。

ビラのイメージイラスト

◆戦時慰問中の劇団が犠牲に
長崎県東彼杵郡川棚町での出来事。昭和20年7月31日の空襲で川棚大橋の近くに爆弾が落ち、69名が亡くなり、大きな被害が出た。爆弾が落ちたところにちょうど劇場があり、当時慰問公演中だった劇団の朝鮮人団員7名も犠牲になったという。






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