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『美しき天然』は令和のピースソング

◎佐世保で誕生した日本初のワルツ『美しき天然』
1902(明治35)年、当時の佐世保海兵団軍楽長で私立佐世保女学校の音楽教師だった田中穂積が、烏帽子岳、弓張岳、九十九島など佐世保の美しい景観に感動し、女学生のための唱歌として作曲したのが『美しき天然』。歌人武島羽衣の歌詞は佐世保とは関係なかったが田中の思いにぴったりの詩の内容だったという。この日本初のワルツの美しいメロディーは、作曲家の中山晋平や古賀政男らにも影響を与え、日本の歌謡曲のルーツといわれている。

◎チンドン屋さんと『美しき天然』
『美しき天然』は唱歌として広まり、大正時代からサーカスやサイレント映画(無声映画)付の楽士たちが好んで演奏するようになった。しかし録音技術の向上(トーキー映画化)で楽士たちが次第に職を失い、昭和10年代以降、楽士からチンドン屋に転職する人が増えたため、自分たちの得意とする『美しき天然』を演奏して練り歩くようになったともいわれている。

◎チンドン屋さんと戦争
太平洋戦争が始まると、1941年に活動を禁止されたチンドン屋さんや大道芸人たち。「国全体で戦いに集中するなか、まちを浮かれ歩くのはけしからん!」という理由で禁止されたという。戦時中は自由に活動できなくなったのである。

◎チンドン屋さんと長崎原爆と『美しき天然』の意外なエピソード
北マリアナ諸島のテニアン島は、太平洋戦争末期まで約30年間日本の統治下にあった。その商店街にあった映画館の日本人経営者が、チンドン屋さんのような格好をして、よく『美しき天然』を演奏しながら宣伝をしていたという。
太平洋戦争末期にそのテニアン島をアメリカ軍が占領し、長崎に投下された原爆を搭載したB29の出撃基地となったのである。日本が降伏した後、島に潜伏していた日本軍兵士や民間の日本人への投降を呼びかけする際に、アメリカ軍は『美しき天然』の曲を流したといわれている。

◎『美しき天然』は令和のピースソング
日本の敗戦で太平洋戦争が終わると、チンドン屋さんは再び自由に活動ができるようになった。その意味では、チンドン屋さんは「戦争のない平和な時代の象徴」でもある。チンドン屋さんが自由に活躍する時代は、平和で明るい時代。♩チンドンチンドン、令和時代の今日も明るい平和の音色がまち中に響きわたる。♩チンドンチンドン、♩チンドンチンドン、♩チンチンドンドンと軽快に練り歩く、令和のピースソング『美しき天然』を演奏しながら。

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