見出し画像

トレメンディスモの最高傑作『パスクアル・ドゥアルテ』(リカルド・フランコ)

少年が聖書の一節からアブラハムとイサクの顛末を朗読すると、そのあまりに拙い朗読に教卓の司祭は居眠りを始める。生徒たちは自分が何を読まされているのか誰も理解していない。少年は隙を見計らって教室を飛び出して木の上に居場所を見つける。ずいぶんあとになってから、嫁を娶りたいと司祭を訪ねて教室の暗がりに現れとき、かつて読まされた文章が全く同じ調子で子供たちに朗誦されているのに思わずほくそえんで自分でも暗唱してみせる。

ポルトガル人とあだ名された父親が、少年に新聞を読んでやる。詳しいことは語られないが、新聞は顔写真付きでさる改革運動の指導者が銃殺されたことを伝えている。年端もいかない少年は事態を理解していないが、のちに彼が殺人罪で収監されたとき、このときに捕まった大量の政治犯への恩赦のついでに彼も釈放されることになる。

どちらのシーンも原作小説にはないシーンで、全体に映画は脚色されている。後述するが原作はその無軌道な暴力描写ゆえ発売禁止になったいわくつきの作品で、映画はその核心を抽出するべく執筆当時には表象不可能だった内戦直前の対立構図を詳らかにし、長回しを多用したショッキングな暴力描写をぶち込んで長い検閲時代の終わりを宣言してみせた。

一方で小説の朴訥ながら壮絶な告白体が紡ぐ時間のうつろいは、素朴な唄とメセタに降り注ぐ強烈な日差しの中でかげろうのように演出される。「ミツバチのささやき」の名カメラマンが映す画面のなかを、亡霊のようにほっつき歩く人々の寄る辺ない佇まいが、より一層時間の感覚を狂わせていく。

映画の舞台はスペインの社会が急速に変化を遂げた内戦直前の時代におかれている。この映画を見たのはflixoléでスペイン映画を漁り始めた最所の頃でスペインの歴史的事情に疎く事実関係を捉えるのに苦労はしたが、こちらを挑発するような強烈なシーンの組み立て方とその迫力には言葉にできない衝撃をうけた。今回は映画に関する資料にほとんどありつけなかったので、作品の舞台となった20世紀初頭スペインの時代背景を以下長々と書いている。後半は小説とその系譜がどのように映画に翻案されているのかを書いてみた。


ラティフンディア

歴史の教科書でしかお目にかかったことがないこの古代ローマ爾来の大土地所有制度は、映画公開時のスペインではばりばり現役だった。ポルトガルと国境を接するイベリア半島の真ん中に位置するエストレマドゥーラの大土地所有と農地改革については少し古い(1992年刊行)が『スペイン辛口案内』(野々山 真輝帆)が簡潔にまとめている。

エストレマドゥーラの現在の農地所有形態は何と十二世紀の国土回復運動以来のものである。当時このあたりがモーロ人とキリスト教徒との国境地域であった。したがって端extremoという言葉からエストレマドゥーラという地名が生まれたといわれる。カスティリャの植民がまだ終っていなかったころ、メリノ羊の飼育に適したこの広大な放牧地がモーロ人の手からキリスト教徒の手に渡ったとき、政治的に強大な権力をもっていたアルカンタラ・サンチアゴ・カラトラバ三騎士団の間で分割された。宗教的・軍事的性格の騎士団は、高位聖職者とかかわりのある貴族に土地の管理を代行させ、質の高い安価な羊毛の生産地に変えた。これによって騎士団は経済的実権ももつようになったのである。

騎士団が衰退しても、土地所有の構造に変化はなかった。十八世紀になっても全人口の二・二パーセントを占める貴族と高位聖職者が、この地域の土地の八〇パーセントを所有していた。十八世紀末の人口の増加と生活水準の上昇に加えてフランス革命をおこした啓蒙主義は、スペインにも伝わって大土地所有制に圧力をかけたが、変革をもたらすにはいたらなかった。

十九世紀に入ってようやく教会・貴族の所有する永代所有財産の売却がはじまった。ダイナミックな資本主義ブルジョアジーの出現により、新たな大土地所有者が出現した。しかしこれによって大土地所有制はかえって強化され、土地集中と農民の急速なプロレタリア化を招いた。また改革の矛先は貴族より教会に向けられ、一八三七年の領主権の法律は領主所有地を「私的所有」として温存したために、貴族にとってはむしろ有利に働いた。

エストレマドゥーラでは、大農園は依然農業企業家の性格をもたない貴族の手に財産としてとどまり、農業の機械化は遅れた。

第二共和制の農地改革がはじまり、一九三六年三月の人民戦線政府の法令によって、エストレマドゥーラではすべての農夫に土地を与え、農地改革センターが必要と認めた農地の占拠を許可した。しかし三ヵ月後内戦の開始とともに反改革が進められ、農民は土地を旧地主に返さなければならなくなった。フランコ体制においては土地問題は未解決のままであった。資本家の圧力で五三年農地改革法が定められたが、政府に実施の意志はなかった。七三年、農業発展・改革法が制定され、さらに七九年、民主中道連合によって「明らかに改善の余地のある農地に関する農地法」が公布され、これが社労党の農地改革の道具になった。エストレマドゥーラ州庁は、農業検査官を主要な農園に派遣し、改善計画をそれぞれの農園に課して実施を義務づけた。

スペイン辛口案内(野々山 真輝帆)

土地改革は幾度も試みられては挫折する。効力がなかったゆえ上記の本では省かれているが、1932年9月の農地改革法は映画とかかわる内容なので以下メモしておく。

農地改革法の目的は、農村の状況を根本から変えることでも土地を集産化することでもなく、ラティフンディオを収用して農民を定住させることだった。農地改革法によって、補償金を支払うことなく一部の貴族(スペイン大公たち)の土地を収用することができた。耕作が不十分な土地、つねに借地になっている土地、灌溉が施されていない土地は、土地所有者に補償金を支払うことで収用できた。農地改革法の適用は農地改革院(IRA)に委任され、収用を受けた土地所有者に補償金を支払うための年予算を計上し、農民の家族が定住する便宜を図った。
農地改革の成果はきわめて乏しく、社会の緊張を大きく高めることになった。改革は多くの限定つきで適用され、収用した土地面積は予想よりもかなり小さく、定住した農民の数も当初の見込みよりかなり少なかった(1932-1934年の定住者数は約1万2,000戸だった)。この失敗の原因として挙げられるのは、農地改革法の仕組みが複雑だったこと、その適用が緩慢で官僚の反対に遭ったこと、政府による補償金の予算が不足していたこと、そして土地所有者が法のあらゆる抜け穴に訴えて抵抗したことである。
農地改革法の適用は、重大な社会的結果をもたらした。一方では、大土地所有者が不満をしめし、しばしば農民と対立した。さらに、土地所有者の多くが体制の敵と手を結んだ。このことが、共和政の諸改革に反対する保守派諸勢力の結集につながったことには疑いがない。他方では、共和政に託した期待を裏切られた農民は失望し、より革命を志向する姿勢に転じた。彼らはしばしば暴力行動に訴え、治安部隊との衝突を起こした(土地の占拠、農場への放火、治安警察との衝突など)。

スペインの歴史――スペイン高校歴史教科書 (世界の教科書シリーズ)

メセタに降りそそぐ強烈な日差しに照らされると、貧しい農夫の逃げ場はどこにもない。映画の主人公は小作人だが、彼らを管理する地主の肖像も描写されている。広大な土地を所有し、そこに暮らす小作人たちの冠婚葬祭を取り仕切り、選挙で集票し、労働運動に対峙する。あとで書くが原作小説にはない映画に描かれた地主と労働運動の担い手たちの肖像を理解するには、当時の政情を確認しておく必要がある。映画で描かれる年号を推定してみると、アルフォンソ13世の王政復古親政(1898-1923)から第二共和制(1931-1936)あたりを念頭においておけば話が見えてくる。

1873年 - 1874年 - 第一共和政
1874年 - 王政復古アルフォンソ12世即位)
1898年 - 米西戦争(アルフォンソ13世即位)
1909年 - 悲劇の一週間
1923年-1930年 - ミゲル・プリモ・デ・リベラ独裁
1931年-1936年 - 第二共和制
1936年 - 1939年 - スペイン内戦

推測するに父親はアルフォンソ12世時代に生まれ、パスクアルは米西戦争後の再生主義的思潮のさなかに産み落とされる。リベラ独裁時代に青年期を過ごし、第二共和政発足直後最所の殺人を犯して「改革の2年間」をまるまる獄中で過ごし、内戦直前に再び世に放たれる。同じ頃の外国動向として念頭に置いておきたいのは、ポルトガル共和革命(1910)、第一次大戦とロシア革命(1917)、戦時特需のインフレなどがある。こんなとこ詳しく書いてるといつまでも終わらないので、映画冒頭に関係あるところで以下20世紀最初のディケイドをある事件から概観してみる。

カシーケと労働運動

1874年王政復古後保守党と自由党の二大政党制が根付くが、これは大土地所有制度ラティフンディアのカシーケ(cacique)という地方の政治ボスが不正手段を駆使して集票した結果だった。植民地戦争に敗れ98年世代を中心に自国の後進性を意識した知識人たちはこのカシキスモ打倒に動き始める。地域主義の後押しもあって、二十世紀に入った頃からカシキスモに束縛されない諸政党の議席獲得数が15%を超えるようになる。

米西戦争敗北の経済的打撃は限定的で、植民地から還流した資本は国内への投資に向けられ工業が発展する。それに伴い労働者同盟が各地で組織されるようになる。マドリードとスペイン北部では社会主義基盤のUGT(労働組合総同盟Unión General de Trabajadores )、アナーキズムが強かったバルセロナ(のちアンダルシアも)ではより急進的なCNT(全国労働組合Confederación Nacional del Trabajo)が創立された。ちなみにこの2つの組織とPSOE(1879年〜スペイン社会党またはスペイン社会労働者党)、FAI(イベリア・アナーキスト連盟Federación Anarquista Ibérica)あたりは移行期の映画でもよく出てくる。

労働運動が盛り上がったカタルーニャはスペインの工場と呼ばれる。この地方は産業革命後工業化に成功し、鉄道もトーキー映画スタジオもバルセロナで最初に作られた。カタルーニャの経済的利益の擁護と政治的影響力の確保を求めて、各地の地域ナショナリズムを糾合した地域主義連盟リーガが1901年に結成される。バスク、ガリシア、アンダルシアなどでも小規模ながら同様の動きがあった。

悲劇の一週間

アルフォンソ13世による親政下(1898–1930)で1907年4月から保守党アントニオ・マウラ政権が続いていた。マウラはキューバに自治権を与える法案を出した保守派の中の改革派。内務大臣としてカシキスモ打倒を打ち出すが、国王が親政を復活して介入し難しいかじ取りを任される。(当時政権が目まぐるしく変わるためたった2年続いただけだが「長い」政権と呼ばれる)。

唯一残った植民地モロッコはスペインの威光と近代自由主義の矛盾を詳らかにする。現地住民からの反発を受けてこれを鎮圧させるため大量の予備役が招集される(第2次リーフ戦争1909/7/9-12/4)。しかし派遣された予備役数百人が戦闘の犠牲になったと知ったバルセロナでは戦争反対を叫ぶ抗議運動がゼネストに発展して暴徒化する。マウラは戒厳令を敷いてこれを鎮圧する。数千人が拘束され、5人が終身刑、59人が死刑判決を受けた。死刑囚の一人には教育者のフランシスコ・フェレール(Francisco Ferrer Guardia)が含まれていた。

フランシスコ・フェレールのモダンスクール

フェレールはバルセロナ生まれ。1885年共和主義革命失敗を受けてパリに亡命し、無政府主義思想に傾倒する。長い亡命生活を経て1901年にバルセロナのバイレン通り56番地にモダンスクールを開校した。自由教育学院の流れをくむ男女共学、懲罰の禁止、科学的思考の鍛錬をうたった当時として画期的な学校で、カトリック教会が実践してきた信心と服従に重きを置いた方針とは相いれないものであった。そのため創立当初より警察、マスコミ、教会から批判、妨害を受けることになる。1906年フェレールはアルフォンソ13世夫妻爆殺未遂事件への関与を疑われ収監される。実行犯がフェレール学校に出入りしていたが、暗殺への直接関与を示す証拠はなく、1年後に釈放された。そして上述した1909年7月、再び暴徒を扇動した罪に問われ今度は処刑された。今日では自由主義思想への見せしめ的な処遇として、冤罪だったとされる。フェレールの処刑は欧州にも伝わり、1909年7月25日から8月2日は悲劇の一週間と呼ばれる。

カトリック=体制への批判は19世紀から根強くあったが、アナキスムと社会主義の流行で徐々に深刻な対立に発展していく。この作品には描かれないが教会や聖職者への執拗な憎悪は、スペインという国のかたちをめぐる苛烈な衝突の末端の火花なのだろう。この執拗な反教会主義を抜かしてしまうと、内戦に至るまでのエスカレートを見誤ってしまう。少し脱線して「概説 近代スペイン文化史」(立石博高編)を参照しておく。

体制がカトリックを国家の宗教として擁護したことから、王政復古体制下のスペインではカトリック復興が起こり、この時期に修道士の数は男子が一〇倍、女子が三倍に増加するほど、教会は社会における存在を増した。これに対して、体制から排除された勢力のひとつである共和主義者は、聖職者は「反スペイン」であり、「反近代」であるという言説で、教会批判を強める。
(中略)
この時期に反教権主義が共和主義と結びついたことは、共和主義と、アナキストや社会主義との共同戦線を可能にし、後に第二共和政を招来する反体制運動の母体となるという点で、大きな意味をもった。しかし、一九世紀末までの教会への攻撃は、主にメディア上の風刺や批判が中心だったという意味では、穏健だったといえる。二〇世紀に入ると、アレハンドロ・レルー(一八六四〜一九四九年)らポピュリスト共和主義者による煽動的演説において、聖職者は諸悪の根源の悪魔だという見方が提示され、殺害が必要だという理屈が生まれる。これに対して、体制に不満をもつ民衆が反応し、反教権主義の主役は、神の存在自体を否定するアナキストや社会主義者に移った。バルセローナの「悲劇の一週間」(一九〇九年)では、北アフリカでの植民地戦争への予備役の出兵をきっかけとした反戦ゼネストに端を発した暴動でありながら、植民地に利権をもつ大ブルジョワジーと教会は同じ穴の狢だという考えから、市内一〇四のうちの半数の教会施設が焼き討ちにされ、修道女たちの墓が暴かれ、三人の聖職者を含む一一八人が犠牲になった。民衆を煽動したとの罪を着せられ、アナキスト教育家のファレー・イ・グアルディアら一七人に死刑判決が出され、五人が銃殺された。内戦期にスペイン全土で嵐のように吹き荒れる、暴力的な反教権主義と、それに対する暴力的な報復の始まりだった。

「第3章 王政復古期の文化」(山道佳子)

同書第10章の「反教権主義運動の展開と教会(渡辺千秋)は19世紀以降の教会・国家の関係と脱宗教化(ライシテ)をまとめており参考になる。同じ著者による論文「政治化するカトリック平信徒ースペイン第二共和政期の宗教的エリート像」は、この時期のパワーエリートの生涯を紹介して、スペインカトリックの平信徒の肖像を浮かび上がらせる。19世紀なかばコンコルドで国家の庇護を求めて以来、教会は国家と密接な関係を築いて自由主義的法規制と戦ってきたが、この盤石な既得権益をめぐる諸層は一枚岩ではない。王家の正当性をめぐって三度にわたる戦争を引き起こしたカルリスタ、ナポレオン戦争後の権力の空白地帯を狙い数百回にわたるクーデター未遂プロヌンシアミエント(pronunciamiento「布告」「宣言」の意)を起こした諸侯たち、世俗主義をとってのちテクノクラートとして入閣するオプス・デイ。20世紀ともなるとここに社会主義、無政府主義、植民地主義、全体主義が加わっていよいよ筆者の理解を超えたイデオロギーの迷宮が完成される…。

以上が映画冒頭パスクアルの父親が読んでいる新聞に報道されている事件の背景の一端で、このあと成長したパスクアルが暴れる頃ともなれば、第一次大戦によるインフレとクーデター、そして第二共和政が待っている。この辺書いてるときりがないので、映画のほうへ話を移すことにしよう。

映画の公開はフランコ死去の翌1976年。40年ぶりの総選挙を控えて保守・革新ともに活動を活発化させており、そのあたりの世相を反映して脚色されている。
原作との大きな違いは主人公以外の登場人物に視点を与えているところで、原作にはでてこない小作人と地主が重要な脇役として世相を表す。小作人は地主のもとで労働条件をめぐって騒擾を起こして追放されると、CNTの構成員となりラジオが知らせる共和派の勝利に真剣に聞き入る。パスクアルも世の中の変化には気づいている。結婚式の夜共和派の旗がはためく街を歩いて酒場に入り、酔った仲間から素朴な歌でからかわれるとき、隣州のトルヒーリョでは共和派が優勢だと答えて明るい未来を予感する。

映画は極力説明を廃しているため、事実関係を捉えるのがなかなか難しい。データによってはもっと長いものもありそう?で、94分に入らなかったマドリード逗留も撮っていたのだろうか。
映画についてはまた後ほど触れることにして、まずは原作について以下見ていく。


小説『パスクアル・ドゥアルテの家族』


原作は42年刊行の小説「パスクアル・ドゥアルテの家族」。著者カミロ・ホセ・セラCamilo José Cela(1916年5月11日 - 2002年1月17日)はガリシア州生まれの36年世代のひとりで1989年に今作でノーベル文学賞を受賞している。

ヘミングウェイとセラ

セラがマドリード大学在学中の1936年、20歳の時にスペイン内戦が勃発した。青年期の政治的思想は保守的であり、フランコ率いる反乱軍が支配する領域に逃れた。兵士として反乱軍に入隊したが、負傷してログローニョで入院している。1939年にスペイン内戦が終結すると、いったんはマドリード大学で法学の勉強を始めたが、しだいに執筆活動に時間を割くようになった。自身初の小説『パスクアル・ドゥアルテの家族』を執筆しはじめ、1942年26歳のときに刊行した。

今作はエストレマドゥーラ州を舞台にしたスペイン初の超リアリズム、実存主義小説とされる(参考までにカミュ「異邦人」も同年刊行)。1882 から1937年を生きたパスクアル・ドゥアルテによる語りが、獄中にて処刑を待つ間過去を回想する形式をとっている。1989年に邦訳でており、読んでみると映画と少しずつ違う。粗暴な父は狂犬病にかかって死に、奔放な妹ロサリオは盗みを働き家を出て娼婦になる。母は父との喧嘩でも引けを取らない豪胆な性格で外に愛人がいて、パスクアルにも二人目の妻というのもいる。

以下翻訳を担当した有本紀明の解説からメモしておく。小説のエピグラフにもなっているが、殺しの間際の「パスクアリリョと呼びそしてほほえんだ」には、下位の者へのニュアンスが呼び方に含まれていて、これまでのパスクアルの成り行きを知って憐憫を抱いたのだろう。育てたカラスに目をついばまれる("Cría cuervos y te sacarán los ojos")、そんな皮肉をこめたカシーケの最期と読める。そしてこの年の7月18日にあの内戦が始まる。この小説はその残虐性と反道徳的内容から特異な位置を占め、凄絶主義(tremendismo)という潮流を作ったそうだ。

小説ははじめと終わりで、パスクアルの残した手記を発見した当局の人間がコメントする形式をとっている。綴の間違いや断章の辻褄を考察したりすることで、架空の人物をさも実在の人間であったかのようにする小説の仕掛けになっている。またこの形式を選択したのは著者セラが当時置かれた境遇も関係している。

セラは税関アカデミーの教授のもとに生まれ、首都に移り大学では学部を転々とし、内戦が起こるとナショナリストとして戦う。戦後の1942年から政府側機関誌に執筆協力後雑誌の検閲官となる。この頃『パスクアル』は完成され、掲載されたのもこの機関誌だった。ただしその暴力的な内容ゆえ第2版は発禁となり、第3版はブエノスアイレスで出版された。セラはマドリードの新聞協会から追放され、この時期の彼はスペインから少しずつ距離を取りはじめる。そうかと思うと57年には王立アカデミーの会員となり、体制側へと接近していく。セラは政治的には中立を保ち、内戦、追放、受勲に際しても傍観者の立場を取り続けた。自身の立場を率直に述べている。
「戦争に対する最良の策は、深く関わりを持たぬことだと思う。あのことは私の人生で最も不愉快な出来事である。本当に恐ろしいことであった」

会員として長きに渡る文学雑誌の刊行を続け、育ちに似つかわしくない卑語を連発したことで知られる。これは今作のなかでも幾度も目にすることができるセラの文体の特徴で、有本によれば訳出できない名詞の性の混乱、独特の構文、形容詞の使い方などに特徴があり、粗野な文体を作ることに腐心していたようだ。セラはそのものずばり「卑語辞典」の編者でもある。
小説の中身についてはあとでもう一度映画との比較を交えて書くことにして、ここからは少し時間を遡ってセラを育んたスペイン文学のある系譜について寄り道してみたい。

ピカレスクの系譜

ピカレスク小説(Novela picaresca)の訳語に「悪者小説」というのは座りが悪いという。フランシスコ デ・ケベード他 『ピカレスク小説名作選』 (牛島信明、竹村文彦訳)の訳者牛島信明によれば、ピカロとは極悪非道の人非人、ではなくて、生きるために悪知恵働かせる憎めないところの「悪者」にすぎない。「ラサリーリョ・デ・トルメスの生涯」(1554年)は、作者不詳のピカレスクロマンの元祖で、セラが後年パロディとして書き直している(「ラサリーリョ・デ・トルメスの新しい遍歴」)。以下『ピカレスク』巻末の訳者解説を頼りにピカロの系譜を簡単に振り返っておく。

4つの特徴を挙げている。

1、主人公が下層階級の出身で、社会の寄生虫的な存在である。
2、主人公が話者となって、一人称体でみずからの体験を語る。
3、エピソードが次々と並列的に挙げられ、前後の脈絡はあまり重視されない(それゆえ、長く続けることが可能になる)。
4、連ねられるエピソード(すなわち主人公の社会遍歴)を介して、社会の諸相の汚濁や悪があばかれる。

これは「パスクアル」にいずれも当てはまる。続いてなぜスペインなのか、について論じている。乞食大量発生説、コンベルソ遺恨説、スペイン生粋主義、どれも興味深いが脱線しすぎるので参考まで。

スペインが西欧の文学(文化)潮流の先駆けとなること、これはごく稀な現象である。というのも、スペインには西欧諸国に起こった文化的流行がやや遅れて入って来て、その時間的なずれとスペイン独特の知的風土ゆえに、他国とは異なる、スペイン独自の花が咲くというのが通常だからである。例えば騎士道物語、神秘主義文学、ロマン主義などがそうで、こうした現象は一般に〈遅れた結実〉frutos tardiosと呼ばれている。従って、十七、八世紀における西欧での大流行に先駆けてスペインで誕生したピカレスク小説は、ほかならぬ「ドン・キホーテ」と並んで、数少い例外と言えよう。

次にリアリズムの中身について分析している。乞食が地方を徘徊し施しを求めてさまよう。騎士道物語、牧人小説、感傷小説のイデアリズムに対するアンチテーゼとして置いてみると、この小説のリアリズムの在り処を位置づけやすい。ただし忠実な写実=リアリズムではなく、ドン・キホーテが文学の伝統に倣ったように、この小説も民話に倣って新たな文学空間を作っているという。

スペイン神聖帝国神話を支えた二つの存在、聖職者と郷士(イダルゴ)は、ピカロの視点で次々と解体されていく。ラサロが仕える9人のうち5人が聖職者で、いかに彼らが当時堕落していたのかを風刺する。またこれと並んで風刺されているのが郷士(イダルゴ)で、この貧乏貴族階級が血の純潔と名誉を重んじるがばかりに労働をないがしろにして飢えに苦しむ様子が戯画的に描かれる。訳者によれば、ラサロが社会的に上昇すればするほど、倫理的には下降する。この点について「非人間化(=敗北)の文学的勝利」と題して小説のアイロニーを分析している。

で、一方の「パスクアル」には、ラサロが倣った民話の小気味よい挿話などなく、乾いた告白文体で綴られる極貧生活者の苦悶には帰すべき適当な倫理がはじめから見当たらない。セラがこれを書いた時代にはそのリアリズムを成立させるためにアンチテーゼとして対抗できる騎士道も牧人も神聖帝国もすでに消滅してから数世紀がたっていた。そんな時代に彼らを召喚すればアナクロな戯画化にしかなりえないことをセラはよく知っていたからだろう、社会を風刺するためのピカロ視点は、「パスクアル」においては放擲されている。文体もキャラクターもピカロを原型にしながら、これをピカロ小説として読ませまいとする力みさえ感じる。ここにはピカロが膝を打つ頓智で他人に取り入ったり、主人の倫理観がほころぶ瞬間を特権的な視点から盗み見る楽しみもない。

映画『Pascual Duarte』

パスクアルは殺人罪で投獄されるが、1936年に模範的な態度を買われて出獄する。歴史に照らすと1936/2にアサニャ政権により恩赦が実行されるのでセラはこれを想定したという説があるようだ(映画はこれを採用)。当時エストゥレマドゥラでは下層農民の反乱があった。政治犯は当時銃殺が通例だが、パスクアルはガロテによる絞首刑にされている。これについては翻訳者有本が疑問を提示している(このドンヘスス殺害は政治的行為とみなされなかったのか?)が、私は短絡的にスペイン名物ガロテを出したかっただけなのではないかと邪推する。ガロテの最期の使用は1974年カタルーニャの活動家サルバドール・プッチ・アンティック。1976年公開映画としては売り物になる。余談だがセラはアンティックに使われた最後のガロテを自身の「パスクアル」と並べて展示していたことがあるようだ(遺族の抗議で中止したが)。

小説と映画の最大の違いは、その文体にある。小説では獄中で自らの来し方を回想する主人公の回想が語りとなって彼の思考回路を味わうことができるが、映画において驚くのはパスクアルはもちろん登場人物たちがほとんど喋らないのだ。もっと驚くのは喋らないにも関わらずパスクアルの苛立ちや哀しみがこちらに伝わる役者の演技と、まるで風景の一部のように登場人物たちを突き放して写しとる凄まじいカメラ。パスクアルが生きた時代の混乱は、原作よりもはっきりと画面に映る。検閲が撤廃されなければこのような直截的な描写はできなかっただろう。

もっとも彼らをなんらかの行動に駆り立てたイデオロギ―を、主人公に認めることはできない。原作には告白文体特有の空隙から貧しい農夫が行き着く場所を推測できそうだが、"告白"を禁じられた映画からは意図的に特定の集団への帰属が曖昧にされている。これは脚本にも名前を連ねているセラより、製作したケレヘタの存在と1976年という公開年が影響しているように思える。
本当はここで1976年という政治的特異点を軸に映画への翻案を鮮やかに論じたいところだが、ここはまだ勉強中。映画から受け取った簡単な所感だけ書き残しておく。

パスクアルは逮捕されるがそれは妹のヒモである男を殺害した罪であって、当時の農地改革とその混乱とはなんの関係もない。映画では小作人と地主の対立を盛り込んで、この断絶を残酷なほど克明に描く。土地を浮浪する日雇い青年が、地主カシーケと対立して土地を追われ、新興のCNTを支持して王政打倒と共和主義を信じる。パスクアルは彼を横目にひそかに新たな時代の到来に興奮しているが、連帯はしない。カシーケのもとで土地を耕し、同じように近所で生まれた馴染を妻に娶り、かつて通った教会の牧師に頼んでカシーケの祝福で結婚する。都会ヘの出稼ぎに最愛の妹を"奪われ"て憤慨し、持ち前の気性の荒さがたたって凶行に及び収監されてしまう。
ふたりの青年がたどる牢獄への道は大きく異なり、土地改革はじめ新政府の挑戦が挫折した事実への受け止め方も違うはずだ。小作人の青年が恩赦で釈放される"ついで"にでてきたパスクアルは、土地改革の挫折から政府に対して不信感を抱くこともなく、恩赦で釈放された運動家達が結束を固めるすぐとなりで、自分にはもはや何も残されていないかのように思い詰めたすえ、かりそめの地主になりそこねた"不遇"を呪って銃を取る。間違った人間が間違った相手に、間違った思いを爆発させる。確かに、ここにはある種のアイロニーがある。それも原作にはない「民主化」をてこにした強烈なアイロニーが。

以下書籍はいずれちゃんと読みたい参考文献。
『Novel into Film: The Case of LA Familia De Pascual Duarte and Los Santos Inocentes』 1996( Patricia J. Santoro )ではセラの小説の詳細な分析と映画の比較を行っている。同情的な地主の姿やイデオロギーとは距離を取った家族問題への焦点、その他作品の演出面や美学的な論点でがっつり論じているが、それ以前の社会的背景の整理が追いつかずまだ読みこなせない。


ロケ地はトルヒーリョtrujillo(エストゥレマドゥーラ州)、チュエカchueca(toledo)、グアダラハラguadalajaraとなってる。

スタッフ・キャストも詳しいことはわからないが気に留めたところを書いておく。
主演のJosé Luis Gómez García (born 19 April 1940)は今作でカンヌ主演男優賞受賞。その後サウラとアルモドバル作品にも出ており今も活躍中。

父親役Héctor Benjamín Alterio Onorato (born 21 September 1929)はアルゼンチン出身。舞台からキャリアを積みスペイン滞在中アルゼンチンの極右組織から殺人脅迫を受け亡命を決意しスペイン市民権を取得した。カラスの飼育(1976)、A un dios desconocido (1977)、巣(1980)などどれも忘れがたい演技を残している。

エスティラオ役のJoaquín Hinojosaは黒い軍団(1977)、エリサ(1977)と、アレックス・コックスのデス&コンパス(1993)にもでてたのか。

ローラ役のMaribel Ferreroは今作と同年イバン・スルエタのショートフィルムLeo es pardoで主演している。

製作はエリアス・ケレヘタで編集、音楽はいつもと同じ。ルイス・デ・パブロの音楽は素朴な爪弾きがとてもいい。

監督はRicardo Franco(Madrid , May 24, 1949 - Madrid , May 20, 1998) 。親はオルテガを汲む哲学者。芸術一家でジェス・フランコの甥にあたる。二十代で今作撮ってるわけだが、ケレヘタ組ががっつり脇を固めている。その後アメリカにわたり撮ってたみたいだが詳しくはわからない。詩人としてポップソングに数多く歌詞提供してるようだ。49歳で亡くなっている。

撮影Luis Cuadrado(Toro, Zamora, Castilla y León, 8 July 1934 – 18 January 1980)はその後のスペイン映画のルックを決めたこの時期最高の撮影監督。サウラ作品やマカロニを何本か撮り、『ミツバチのささやき』のときに脳腫瘍が見つかり徐々に視力が衰えはじめ、『パスクアル』撮影終了間際に弟子のテオ・エスカミリャに交代し失明してしまう。1980年45歳で亡くなった。

Luis Cuadrado

Pascual Duarte
1975
94m

Directed by Ricardo Franco
Written by Camilo José Cela Ricardo Franco
Emilio Martínez Lázaro
Elías Querejeta

Music Luis de Pablo
Cinematography Luis Cuadrado
Mounting Pablo González del Amo

José Luis Gómez as Pascual Duarte
Diana Perez de Guzman as Rosario
Paca Ojea as Pascual's mother
Héctor Alterio as Esteban Duarte Diniz
Eduardo Calvo as Don Jesús
Joaquín Hinojosa as Paco López, "El Estirao"
Maribel Ferrero as Lola







記事が気に入ったらサポートよろしくお願いします。資料代に使わせていただきます。