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『ペパーミントフラッペ』(カルロス・サウラ)(1967)

カルロス・サウラ監督長編4作目。ジェラルディン・チャップリン初出演で以降計8作に出演する。チャップリンはブルネットとブロンドの二役で、一見ヒッチコック『めまい』を再演しているかのよう。ケミカルな緑色のフラッペを皆美味しい美味しいとがぶがぶ飲み、吹き抜けの螺旋階段を見上げ、ぐるぐる回るカメラが加速していく。映画の最後の献辞で同郷人ルイス・ブニュエルに作品を捧げているのでこのあたりをたどっていくことにする。


クエンカ

クエンカで暮らすレントゲン技師のフリアンは女性誌のグラビアを収集するのが趣味の陰気な独身中年男。モロッコから帰った昔なじみパブロから久しぶりに家に招かれ、結婚したばかりという妻エレナを紹介される。フリアンは2階から降りてくる彼女の足を舐め回すように凝視する。職場の助手アナと瓜二つの姿に思わず、昔会ったことあるよね、と詰め寄る。「カランダで太鼓叩きすぎて指にたこできたの覚えてない?」

映画の中でエレナに街を案内する都合でクエンカの名所をたどり、定番の観光地を散策する。宙吊りの家、サンパブロ橋、ウエルカ川、渓谷などなど。クエンカは1996年「歴史的城塞都市」としてユネスコの世界遺産に登録されていて日本でも人気があるようだ。

教科書的な概要を書いておくと、スペイン、ラ・マンチャ地方の都市クエンカは、フカル川とウエカル川に挟まれた切り立つ崖の上にあり、12世紀から18世紀にかけての歴史的建造物が数多く残る。クエンカの歴史はイベリア半島を支配したイスラム教徒が9世紀に築いた要塞に始まり、レコンキスタを経た13世紀にはスペイン最古のゴシック様式聖堂といわれるクエンカ大聖堂が建立され、マヨール広場周辺にキリスト教の教会や修道院などが次々に建設された。また16世紀にかけて織物業が盛んになり人口が増え、高層住居が崖の上に林立するようになった。なかでも14世紀に建てられ、18世紀まで市庁舎として使われていた「宙吊りの家」はクエンカのシンボルで、絶壁ぎりぎりに建ち、完全に崖からせり出したバルコニーが観光名物になっている。

宙吊りの家

フリアンが川辺を散策しながら、魔女が石碑になった伝説を語る。エレナは上の空だが、クエンカはイスラム時代から栄えた城塞都市で、オルテガが「スペインの中心」と呼んだくらいだから、逸話もたくさんある。「宙吊りの家」Casas Colgadasはかの地の名物だが、現存するのは「王の家」Casas del Rey「セイレーンの家」Casa de la Sirenaのみで前者は抽象画美術館、後者はレストランになっている。魔女伝説の出典は探せなかったのだが、そのかわりに明石書店『カスティーリャとマドリード』に「セイレーンの家」の名前の由来が載っていた。
「セイレーンの家」の由来は不吉ないわれである。14世紀カスティーリャ王位継承戦争で異母弟ペドロを殺して王座に就いた庶子エンリケ(エンリケ二世)が不吉な予言を危惧して隠し子ゴンサロを手元に呼び寄せたため、エンリケの愛人でゴンサロの母親のカタリーナが谷向こうに息子の姿を求めて身を投げる。谷ではその後数年間にわたって、セイレーンの歌声に似たカタリーナの悲痛な声が聞こえていたという。こうして書いてみてもなにもわからないので、青池保子『アルカサル』を読み中。

エンリケ・デ・トラスタマラとドン・ペドロ

サウラは『ペパーミント』に先立つ1958年、23歳のときに彼の地を舞台にドキュメンタリー『クエンカ』を撮っている。
3月から4月の聖週間Semana Santa de Cuencaの名物の山車が確認でき、磔刑やマリアを象った巨像を男衆が担いで何キロも練り歩き、その周りを観衆が居並んでそぞろ歩く。かつては裸足で歩くのが慣例になっていたようだ。

『クエンカ』

サウラは当初は観光名所、風物を扱う通り一遍の観光映画を依頼されて断ったが、自由に撮れることを条件に制作を引き受ける。彼の念頭にあったのはブニュエルのある作品であった。

私はブニュエルのシュルレアリスム映画に特別傾倒したことは一度もなかった ―サウラは明言する―『アンダルシアの犬』も『黄金時代』も私を魅了しなかった。しかし、『糧なき土地』を見たとき、今日まで消えない魅力が生まれた。それは何かが違ったんだ。

『Carlos Saura en busca de la luz』(Natalio Grueso)

『糧なき土地』Terre sans pain(原題”Las Hurdes”)は1933年ウルデスで撮影されたドキュメンタリー。ウルデスはスペインポルトガル国境付近の山岳地帯にあり、サラマンカから100キロほどしか離れていないが石器時代の遺跡が発見されている辺境地帯だった。20世紀初頭から研究者の注目を集め、調査研究書、短編映画などが制作されていた。ブニュエルは自ら創造主に成りすましたようなナレーションでこの地の飢餓や近親婚をとりあげて被写体に迫り、崖から”誤って”転落する騾馬や山羊を撮るために彼らを銃で撃ち殺すのにためらいもない。挑発的内容ゆえ、前作『黄金時代』に続いて今作も発禁処分を食らってしまう。

サウラの『クエンカ』にはこれほどの露悪趣味はなく、地誌学的な興味で観光映画の範疇に収まっているようにみえる。ドキュメンタリー映画はフランコ時代NODO社に独占されており、勝手な制作ができない。カメラや製作のやりかたを試す習作として取り組んだのだろう。作品は高評価をもって受け入れられた。

カランダの奇跡

フリアンが幼少時の記憶として参照するのはカランダの祭りである。カランダの聖週間祭りSemana Santa, Samper de Calandaには大量の太鼓Tambores隊が練り歩き、フリアンの記憶では太鼓のたたきすぎで手に豆ができる。

カランダはクエンカのあるカスティーリャ・ラ・マンチャ州の隣州アラゴンのテルエル県北東にあり、ブニュエルの生地である。
ブニュエルは『ビリディアナ』を完成させた後1966年に故郷カランダの短いドキュを息子フアンに撮らせている。聖週間の太鼓練り歩きを撮った20分ほどの作品で、ひたすら太鼓の殴打を見せるだけ。モノクロの画面で豆こそ見えないが、祭りの終わりには底のひしゃげた太鼓とボロボロにやぶれたグローブが確認できる。ちなみにサウラがブニュエルと祭りに同行した際、男ばかりの太鼓隊の中に紅一点若い女性の鼓手が混じっていてそれが強く印象に残った。彼女はブニュエルの親戚だった(『THE FILMS OF CARLOS SAURA The Practice of Seeing』(MARVIN D'LUGO)。

映画のモチーフにも関わるのでちょっと脱線してブニュエルについてもう少し。ブニュエルが『サラゴサ手稿』を偏愛していたことはよく知られている(ヴォイチェフ・イエジー・ハスの大傑作『サラゴサの写本』(1965)の原作)。これはポーランド人の手によるフィクションだが、ブニュエルが惹かれたのはその語り口もさることながらこのアラゴン州都を舞台にしたたわけ逸話のほうであっただろう。
四方田が『ルイス・ブニュエル』の中で、カランダを訪れて古くから伝わる”奇跡”について書いている。断片的にフィルモグラフィを追っているとわからなかったのだが、大西洋を何周かしたこの大監督がアラゴンという土地からでてきたことを強く意識させるエピソードで、改めて作品を見直したくなる。少し長いが以下引用しておく。

一六三七年の夏、ミゲル・フアン・ペリセール・ブラスコという二十歳の青年が、サラゴサで二輪馬車から転落し、運悪くその馬車の下敷きとなって、片足を打ち砕かれてしまった。医師はやむを得ず、その膝から下を切断しなければならならなかった。青年は失意のうちに故郷カランダに戻り、足は地下に埋葬された。
サラゴサでは以前から、聖ヤコブが柱頭の上に顕現した聖母マリアを目撃したことに因み、人々の間に柱頭(ピラール)の聖母信仰が篤かった。青年もまた例外ではなく、ピラールの聖母を熱心に信仰していた。彼はこの厄難を契機に、いっそう真摯に祈りを捧げるようになった。毎日のように教会を訪れては、聖母像の前に置かれた燈明の油に指を浸し、その指で足の切断面を撫でていた。すると事故から二年半ほどして一六四○年のある朝、目覚めてみると、喪失したはずの足が元通りに戻っていた。二十五人の証人が、ただちに奇跡を訴え出た。それをサラゴサで聞きつけた住民は深く感動し、二万五千人のほとんどが柱頭を祀った聖堂に詰めかけた。ローマの法王庁はあまりの騒ぎに、それを奇跡と認定せざるをえなかった。カランダに向かう前にわたしが滞在していたサラゴサでは、壮大な規模をもつ柱頭聖堂のなかに、奇跡を描いた、作者不詳の奉納画が掲げられていた。この聖堂は何よりも聖母マリアを中心としていて、他の聖人の画像や彫刻もなければ、地獄図すらもない。堂の内外はひたすらバロックの文様で飾りたてられている。サラゴサの住民にとって柱頭の聖母とは、隣国のルルドの聖母などよりもはるかに霊験あらたかな存在であり、かつては大司教がそれを公言して問題になったという挿話を、ブニュエルは回想している。聖堂の前では大小取り混ぜた柱頭の聖母像が、奇跡の光景を描いた宗教画の複製と並んで、お土産として売られていた。ちなみにスペインで最初に製作されたフィルムは、エドゥアルド・ヒメーノ親子による『サラゴサの柱頭聖堂の大ミサ後の退出風景』(一八九六)である。
カランダで奇跡の痕跡を見つけることは、わけもなかった。ブニュエルの生家に向かい合った教会のすぐ裏側に、もう一つの、いっそう立派な教会があり、それこそがカランダの奇跡を称えて建立された教会だった。わたしは気が付いた。最初に町の中心を目指して歩き出したわたしが目印にした高い尖塔は、実はこの教会のものだったのだ。
カランダの奇跡とははたして何だったのか。それが事実であったと立証する力も、それを疑う力も、わたしは持ち合わせていない。ただ明らかなのは、ブニュエルの言によれば十五世紀までキリスト教の教会一つ存在していなかったはずのカランダが、イスパニア王国による国土回復運動のさなか、カトリックのイデオロギーの御徴を緊急に必要としていたという事情である。カランダの一青年の身の上に生じた事件が、わずか二年を待たずにローマの法王庁の手で奇跡と認知されたことの迅速さからいって、事態の緊急性は容易に推測できる。このカランダに、ひいてはサラゴサに残留していたユダヤ=イスラム的要素を払拭するために、この手の奇跡はぜひとも大々的に喧伝されなければならなかった。 

『ルイス・ブニュエル』

上記のスペイン最初の映画Salida de misa de doce del Pilar de Zaragozaはyoutubeで見ることができる。サラゴサとかピラールについては長くなるのでまたいずれ書くことにして、かのアラゴン人が足にとりわけ取り憑かれてきたことだけ確認しておく。

『アルチバルド・デラクルスの犯罪的人生』『エル』

アラゴンシュール

サウラは『狩り』でカンヌを訪れた際にブニュエルと意気投合して、故国での撮影を勧めた。ブニュエルとのカンヌでの出会いを以下のように回想している。

「私はクロワゼット沿いのモンフルーリーホテルのテラスで彼を見かけた。私はNexosとPlexosの著者であるヘンリー・ミラーと話をしていた。彼らはエロティシズムについて話し合い、ルイスは対話者とは異なり、ポルノグラフィーに対してエロティシズムを擁護した。それがブニュエルとの初めての出会いだった」

『Carlos Saura en busca de la luz』(Natalio Grueso)

すごい顔ぶれのどこか間が抜けた出会い。ブニュエルは出品作『若い娘』がフェリーニ『甘い生活』に敗れてホテルのバーでマティーニをくゆらせて腐っていた。数人の若者が話しかけてきて、その中の一人がサウラだったとか。28歳のサウラは60歳のアラゴン人に故国での撮影を打診し、これが『ビリディアナ』制作のきっかけになったようだ。
ブニュエルはサウラの第2作『Llanto por un bandido』に死刑執行人の端役で出演しており、作品がカンヌに出品されたときに再会して以来生涯にわたる親交を結ぶ。

写真に写っているいまひとりのサウラについても書いておこう。『ペパーミント』の中でスペイン抽象芸術美術館を訪れるシーンがあり、そこでアントニオの描いた『ブリジット・バルドー』が見られる。

アントニオについては既に記事を書いた。アントニオは50年代後半から国外の展覧会に出品を始めており、スペインアンフォルメルの旗手として認知されていく。

アントニオは、『バルドー』は「熱烈な愛の証」であり、「肖像画を描くには、モデルの存在よりもモデルが作り出す精神的な幻想(fantasma mental)のほうが重要だ」と答える。

アントニオをどの程度意識していたか不明だが、コラージュや描画は今作以降のサウラ作品で何度もでてくる。

サウラの幻想を演じる登場人物たちは、ウィッグとつけまつげで一夜にして変貌し、物欲しげに品定めする巨大な瞳で在りし日の祭りの面影とグラビアカタログを見間違える。ここでは自他ともに認めるブルジョアの出であるサウラが自画像も混じえて奇跡の高度経済成長のさなか都市に暮らす中年男性の肖像を皮肉たっぷりに描出している。金の使い道と化粧品にイデオロギーはなく(初めて検閲で切られなかった監督作)、都合よく繋がれ(間違えられ)るノスタルジックな記憶を錯視するため、カメラの回転は徐々に加速していく。

巨大な眼窩でじっとり化粧品を見つめる中年男フリアンを演じているのはホセ・ルイス・バスケス José Luis López Vázquez de la Torre (Madrid,1922-2009)。スペイン映画を代表する役者で、ベルランガ映画では喧しく飛び交うセリフの網目を自由に動き回って人一倍喋りまくる騒がしい人物ばかり演じている。60年代以降はホラーやスリラーの出演が増えてセリフがどんどん減っていき、悲壮感を湛えた抑うつ的な人物ばかり演じるようになる。サウラ作品は今作が初出演で、以降『庭』『従姉妹アンヘリカ』に出演している。今作でのバスケスは記憶の伽藍を口紅とフラッペで極彩色に絵付けする、内向的で操作的な人物を演じている。

エレナ/アナ

主演はこれからサウラ作品の顔役となるジェラルディン・チャップリン。チャップリンのダブルキャストはヒッチコックオマージュを思わせるが、このあとのサウラ作品で洗練されていく記憶に入り込むための異化効果としてのダブル第一号に数えてもいい。

ひつこくブニュエルをもちだせば、同年公開『昼顔』の夢モチーフ、音の使い方には『ペパーミント』との類似が確認できる。『昼顔』はスペイン凱旋作『ビリディアナ』で三たび故国から拒絶されたブニュエルが、以降活動拠点とするフランスで撮ったブルジョワコメディで、カトリーヌ・ドヌーヴという稀代の女優にあらゆる変態妄想を託した後期の代表作。
サウラがこの作品をどう見たかわからないが、女優を取り扱う手つきと静謐な演出には注目したはずだ。『エル』の宗教的な抑圧の結果でもなく、『アルチバルド・デラクルスの犯罪的人生』の猟奇犯罪者の精神病理でもない、ただのフェティッシュ。そこに1967年の時代精神のようなものがあるのかも。

『昼顔』のドヌーヴ

ブニュエルについてはこのくらいにして、最後に文芸方面から主人公の肖像に迫って終わりにする。


詩の棘

脚本はラファエル・アスコナアンヘリーノ・フォンスとの共同。サウラの証言ではアスコナはほとんど何もしていない(『Carlos Saura』C. Hanser)。
小市民的な登場人物たちが貧しさと労働に振り回されてぼやきまくるほかのアスコナ作品のようなけたたましさは見られず、じっとりした視線が雄弁な、抑圧的窃視趣味が前面にでている。アスコナについては既に頼りない記事を一本書いた。


いまひとりの脚本家Angelino Fons(6 March 1936 – 7 June 2011)はマドリード生まれの脚本家・監督。映画学校に学び、フェレ―リ『小さなアパート』(1960)を手伝い近代小説の現代的な翻案で脚本を書きはじめ、1966年『捜索』で監督デビュー。これはミゲル・ピカソ『テュラおばさん』(1964)と並ぶニューウェーブ映画の一本に数えられて評価され、60年代は売れっ子作家として脚本を提供し、サウラ作品には『狩り』『ペパーミント』『ストレスは3人』に参加している。

フリアンの別宅に招かれたエレナは、書架から一冊の詩集を取り出してその一節を読み上げる。本の背表紙から「マチャード全詩集」と読める。このひとはセビリアが生んだ国民的詩人のようだが、サウラが召喚する彼の霊性はある系譜に列せられる。

アントニオ・マチャードAntonio Machado(1875年7月26日 - 1939年2月22日)はセビリア出身の詩人。「98年世代」と呼ばれるスペイン文学運動の主要人物の一人。1907年カスティーリャ東部の町ソリアの学校でフランス語教授となり、宿泊先の下宿の大家の娘レオノール・イスキエルドと出会う。二年後彼女の法定結婚年齢を待って、マチャード34歳、レオノール15歳で結婚。

1911年研究の為パリに移住するも、レオノールが結核に罹患し故郷での療養むなしく翌年あえなく死去してしまう。マチャードは憔悴してソリアを去り、この地に二度と戻らなかった。

マチャードには一歳年上の兄マヌエルがおり、マドリードで一緒に芝居を書いて上演したりもしていた。ところが内戦が勃発するとマヌエルは反乱軍側について離れ離れとなる。マチャードはバルセロナに移住し、内戦末期の1939年2月国境に近いフランスのコリウールにて没した。

マチャードの作品はロルカを追悼した詩や、「ふたつのスペイン」las dos Españasなどがよく引用されるが、詩集はフランコ時代には読まれなかった。といっても詩を読んでみるとどれも素朴な作品ばかりで、何が規制に抵触したのかわからない。日本語の評論では有本 紀明『アントニオ・マチャドとその世界『孤独,回廊,その他の詩』"常に霧の中に神を求めながら"』などが逐語的に分析をしているので参考まで。邦訳も出ていて読んでみたもののいまひとつ勘所がわからなかったのだが、これがサウラの手にかかれば不定形のビジュアルにつなぎ間違えられてポップでグロテスクな戯画に様変わりする。
詩の朗読シーンに戻ろう。読んでいるのはYo voy soñando caminos(I go dreaming roads )。邦訳があるので以下に載せておく。(『アントニオ・マチャ-ド詩集: カスティ-リャの原野、その他の詩』 石田 安弘 (編訳)

『夕べの道を ぼくは』

詩の中の詩が棘に語り掛け疼きの記憶をめくる重層的な構造になっていて、夕べの情景と黄金色の棘が対照的に浮かび上がる。翻訳で人称は「ぼく」になっているが、映画の中で朗読しているのはエレナで途中からフリアンが加わって二人ではもる(のちにリプリーズ)。そのとき誰が誰のどこにある棘を抜くのか、朗読は酩酊した意識の迷宮に誘う呪文にかわる。

フリアンは旧交を温めようとパブロ夫妻を別荘に招く。パブロは子供の頃に戻ったかのように懐かしく敷地を歩き回り、療養所時代リハビリ用に拵えたステージや滑車つき橇スライダー(なんだこれ)に手をいれる。一方フリアンはエレナを連れて屋敷を案内する。エレナの若いエネルギーをフィルムに収めようとカメラを振り回し、彼女の居ない間に化粧箱を漁る。屋敷はあちこち壁が剥がれ枯れ葉が堆く被さり廃屋になりかかっている。フリアンは廃材から拾った跪拝台にエレナを跪かせて扉の鍵穴からそれを覗き見て回想に耽る。ボロ屋敷での週末が胸の疼きを蘇らせ、普段職場以外で会うこともなかったアナを自宅に招く。ローイングマシーンで汗を流させたあとに彼女の指にできたまめを針でつぶして、そのまま口に含んで愛おしそうにしゃぶると、フリアンの脳裏にはカランダの鼓動が鳴り響き始める。

ハマった!


Peppermint Frappé
1967
92m
Directed by Carlos Saura
Written by Carlos Saura, Rafael Azcona, Angelino Fons
Produced by Elías Querejeta
Cinematography Luis Cuadrado
Edited by Pablo G del Amo
Music by Luis de Pablo

Geraldine Chaplin – Elena/ Ana/ Woman of Calanda
José Luis López Vázquez – Julián
Alfredo Mayo – Pablo
Ana Maria Custodio – Pablo’s mother
Emiliano Redondo – Arturo
Fernando Sánchez Polack – patient




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