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フランコ時代のサラマンカデートコースガイド 「ベルタへの9通の手紙」(バシリオ・マルティン・パティーノ)

映画はマチャードの詩 " Españolito " で始まる。これは各地域のナショナリズムが盛り上がった『2つのスペイン』を嘆いたものだが、フランコ時代に入って二重の分断が重なって見える仕掛けになっている。そもそも2つのスペインlas dos Españasは厳密には3つに分けられるそうだ。①労働運動に端を発した左右軸②カトリシズムと反聖職者主義③中央集権と地方主義。これらがロレンソの身辺雑記を交えて各テーマごとに朗読されながらサラマンカの町並みや人の顔ぶれを並べていくエッセイになっている。撮影ロケ地はサラマンカの、 Morille, Arapiles, Valero。

一応9葉の手紙はロンドン娘に当てたというていなのだが(本当はマドリードに向いている)、60年代といえば若者文化の爆誕期にあたりこんな辛気臭い'所感'がスインギンロンドンに相手にされるわけもない。しぶしぶ地元の恋人と街をぶらつくことで我慢する、というなんともダウナーな一本。「スペイン映画史」で'ゴダールの影響を感じる'とあったので「女と男のいる舗道」あたり想定しながら見てたが、だいぶ趣は異なる。
章題をメモしておく

First letter - Untitled
Second letter - The family rosary
Third letter - In the shadow of the golden stones
Fourth letter - The night
Fifth letter - A Sunday afternoon
Sixth letter - The excursion
Seventh letter - Past imperfect
Eighth letter - Time of silence
Ninth letter - Brave new world

いくつかの章題は小説から取られているようだ。
9番目はハクスリーの素晴らしい新世界で、これを引きながら祖国のディストピアを嘆く。ベルタからの返信はなく、家に新しいテレビが到着して家族が色めき立っており、ロレンソはため息交じりに地元の恋人とのデートに出かけていく。

亡命した大学教授が仲間を連れて街を練り歩く。ロレンソもこれに加わり散策する。老教授はウナムーノの家の前で立ち止まり、夜なべで議論した思い出を懐かしむ。ロレンソは私淑しているCaballeira(誰?)を知っていたか?と尋ねると学生会館で一緒だったよと答え。Residencia de Estudianteは1910年マドリードに設立されダリ、ブニュエル、ロルカらが集った伝説の学生会館。

学生会館前のロルカ

途中出てくる団体Hermandad de Alféreces Provisionales(Brotherhood of Provisional Ensigns)は、1958年にオプス・デイのテクノクラート方針に反対して創設された極右組織。六芒星をシンボルとして用いる。

8枚目のタイトルから当時読まれていた一冊の本と作家の肖像が想起されるようだ。

書いたのはLuis Martin-Santos。1924年モロッコ保護領域Larache(アライシュ)生まれの作家。33歳で自動車事故で夭折するが、精神科医の傍ら変名で小説を書いていた。

出生地から想起される通り父は武官で1929年サン・セバスティアンに転任となり、ルイスはサラマンカで薬学を修めマドリードで博士課程を卒業する。ドイツで1年学んだあとサンセバスチャンに戻り精神科医として働き始める。ギプスコアの地方病院で働き始め、アルコール中毒や統合失調症患者を診て、関連する書籍を書いている。中央集権に反対し左派と接触するようになり、2回逮捕されている。専門書のほか詩や小説も書くようになり、1962年Tiempo de silencio(Time of Silence)を発表する。

小説はペドロという主人公の鬱屈した内面を書いたものらしい。ペドロはマドリードの癌研に勤める若い研究者で、アメリカから送られてくる実験用マウスが足りずに研究が思うように進んでいない。ある日親戚が自宅で行った中絶が失敗し、意見を求められたペドロは警察の捜査を受けることに。直接関わりがなかったので釈放されるが、中絶に失敗した女性が死亡したことで彼女の知り合いから逆恨みされ、刀傷沙汰を起こされて職を追われてしまう。

マドリードの階級や裏社会、売春などが描かれているようだ。女性の表象は体の部位によって行われるのが特徴的だという。提喩の一種として、『ベルタ』と比較して見ることもできるかもしれない。ビセンテ・アランダが1986年に映画化している。


監督はBasilio Martín Patino ( Lumbrales , Salamanca , October 29, 1930- Madrid , August 13, 2017)。邦文の紹介では「スペイン映画史」で記述が確認できるが、我が国では1983年スペイン映画祭で一作上映されたきり一般公開がされたこともない。それも無理もない、スペインの歴史、文化を網の目のように参照した彼の作風は、手引なしでの鑑賞のハードルがめちゃ高い。

パティーノはサラマンカにシネクラブを創設し、名高いサラマンカ映画会議の企画者の一人である。1961年に映画学校を卒業し短編を作ったあと宣伝映画で売れっ子となり、映画学校で講師をとつめたのち「ベルタ」で監督デビューする。3年間公開されなかったが、蓋を開けたら大ヒットしサンセバスチャンで監督賞もとっている。

このあとも、面白そうなドキュメンタリーを発表している。1971年Canciones para después de una guerraは歌で辿るスペイン半世紀、1973年Queridísimos verdugosは最後の死刑執行人に取材したもの、1974年Caudilloはフランコの表象を追ったもの。

マルティンの家族は保守的な一家だったようだ。兄は司祭で姉は修道女。それとは逆にマルティンは無神論者となり大学で文学を学んだ。このあたりが映画に反映されているだろう。

サラマンカ映画会議を主催したときにRicardo Muñoz Suayと知己を得る。この人は十代で活発な共産党員となり内戦後は政府の追求を逃れるため5年間もの間知人の部屋に壁を作って隠れ続けたという(のちこれを題材にした映画が作られてる)。バルデムやベルランガと付き合うようになり、ベルタでマルティンと組んでいる。

Nueve cartas a Berta(Nine Letters to Berta)
1966
92m

Directed by Basilio Martín Patino

Screenplay by Basilio Martín Patino

Emilio G. Caba as el hijo (Lorenzo)

Mari Carrillo as la madre






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