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アントニオ・サウラとアンフォルメル

カルロス・サウラには兄がいた。いや順番から言えば、現代美術家アントニオ・サウラにはカメラマンの弟がいたというべきか。
カルロスがカメラに夢中になっている頃、アントニオは抽象画の世界に巻き起こったムーブメントの一翼を担い精力的に作品を発表していた。美術わけても現代アートは苦手なのだが、カルロスとつながりそうなところを睨んでつまんでおこう。今週末からカルロスの遺作で壁画についてのドキュメンタリーが公開されるので、鑑賞の参考にもなればよいのだが(ちなみにサウラの新作はこちら↓)http://www.action-inc.co.jp/saura/#

アントニオについては、2013年に行われた絵画展の図録が手に入ったのでそちらを参照して書いていく。
まずは絵画展の公式HPから概要をおいておく。

ソフィア王妃芸術センター所蔵
内と外―スペイン・アンフォルメル絵画の二つの『顔』

会期2013年10月3日(木)〜2014年1月5日(日)
会場 国立西洋美術館

2013-14年に実施される「日本スペイン交流400周年」事業の一環として、「ソフィア王妃芸術センター所蔵 内と外―スペイン・アンフォルメル絵画の二つの『顔』」を開催します。これは、20世紀美術史における最も重要な運動の一つとなったアンフォルメル(不定形)絵画のスペインにおける展開を、同国を代表する現代美術館であるマドリードのソフィア王妃芸術センターの所蔵品14点により紹介するものです。
戦後のパリで勃興したアンフォルメル芸術は、1950年代にスペインの芸術家たちに瞬く間に吸収され、1960年代にかけて一大潮流を形成しました。本展はアントニ・タピエス(1923-2012年)、アントニオ・サウラ(1930-98年)、エステバン・ビセンテ(1903-2001年)、ホセ・ゲレーロ(1914-91年)という4人の重要な芸術家に焦点を絞って構成します。タピエスとサウラは、フランコ体制下のスペインに活動拠点を置いて制作を続け、具象性を完全に捨て去らずに素材の物質性や荒々しい造形を追求しました。一方ビセンテとゲレーロは、ニューヨークに渡ってアクション・ペインティングやカラーフィールド・ペインティングといった戦後アメリカの動向に接し、色彩と平面性の側面から絵画の本質を追求しました。しかしどちらのグループも、芸術家個人に内在する精神を直接的に表現する、明確なかたちを持たない絵画を創造した点で、共通した特徴を有しています。

図録では国外組の二人も並べているが、一番紙幅を割いているのが図録の表紙も飾っているアントニオである。

『内と外』展覧会図録。表紙は『群衆』

2013-2014年に展覧会が行われたのは日本スペイン交流400周年記念の一環。図録を見る限り四人の代表作を紹介するのに手一杯で、とても各作家の全貌を捉える余裕まではなさそうである。図録のほかさっと検索した限りではタピエスについては何冊か書籍が出版されているようだが、アントニオについて日本語で読める文章はこの図録を除いて見つからない。もっとも作品についてなら、アントニオ・サウラ財団の公式HPやソフィア王妃芸術センターのHPから所蔵作品を見ることができる。

図録の献辞にソフィア王妃芸術センターの絵画部部長ベレン・ガランの言葉がある。フランコ体制下のスペインにおけるアンフォルメルの位置づけを行っており、1957年『別の芸術』展覧会を転機に1936年世代(または1898年世代の孫)にあたるアントニオ(マドリード)、タピエス(バルセロナ)らが辿った軌跡を素描している。

ここからは各作家解説を引用しながら参考作品を概観していく。アントニオの代表作である群衆についての油彩作品中心に論じられている。

アントニオ・サウラは、スペインのアンフォルメルを代表する画家の一人であり、1930年、アラゴン地方のウエスカに弁護士の父とピアニストの母のもと、4人兄弟の長男として生まれた。内戦の終結後マドリードに家族とともに移住するが、13歳の時に結核に罹り、約5年間の病床生活を余儀なくされる。その間、前衛批評家・文筆家ラモン・ゴメス・デ・ラ・セルナの「イスモス」に感銘を受けるなどして、文筆活動及び絵画制作を始めた。同時に、新聞、雑誌や書籍に掲載された写真や芸術作品の図版をスクラップブックに集めることを始め、のちにイ コノグラフィアと呼ばれるそれは彼の絵画制作の重要な着想源となる。
独学で絵画を学び始めた彼は、当初はシュルレアリスムの影響下にミロやカンディンスキーを思わせる記号的な絵画 (p.77, fig.15)を描いていた。1952年に始めてパリを訪れ、その後54-55年パリに定住、シモン・アンタ イ、マックス・エルンストや詩人のバンジャマン・ペレらと交わりシュルレアリストのグループの中で活動。表現主義的なグラッタージュによる無意識下の心象風景や、様々な様式の実験的作品を残す。1955年にアンタイと共にシュルレアリストから決別、またその後ミシェル・タビエに出会い「別の芸術」を読み、この頃から表現主義的傾向に画業を収斂させていった。アンフォルメルの画家に 転身するのは1956年に帰国した頃で、それ以降、常に身体をテーマと造形の根底に据え、〈婦人〉、〈磔刑〉、〈自画像〉、〈肖像〉、〈裸体〉などを主題に、大きな荒々しい 身振りで不定形の形象を表す作品を生み出していく。
《モニーク/ヴィルピ) (1956年、exh.cat.no.3) と(婦 人》(1958年、exh.cat.no.4)は、サウラがアンフォル メルに本格的に手を染めた初期の作品である。彼は既 に1954年頃から女性をテーマとした作品を手掛けてい たが、1956から58年頃にかけて、女性の名前をタイトルに冠する、もしくは単に〈婦人〉と題した非具象的連作―その多くが同じサイズのカンヴァスに描かれた一を制作している。画面を縦横に乱舞する白と黒の衝動的な筆致は、シュルレアリスムの自動記述の手法を引き継いだものであるが、絵具をヘラで塗りこめたり、チュー ブをそのまま押し付けたりして素材感を強調する描法や、その大きな身振りの造形には、アンフォルメルの刻印を明らかに認めることができよう。


『群衆』1962
『婦人 2番』
『フェリペ2世の想像上の肖像画』(1974)
『映画 1番』(1959)

アントニオは1957年のパリを皮切りにヴェネツィア、ニューヨークと海外の美術展に相次いで出品し、1961年米国初の個展を開催しアンフォルメルの旗手として名声を確立した。代表作群衆シリーズについて作家の言葉を混じえて論じられている。

サウラは(群衆)のシリーズについて、次のように述べ ている。「こちらに近づいてくる無数の身体のない顔を 一つにまとめ上げ、アンチフォルム(反形態)の集まりを ダイナミックに配置することを試みている。一つひとつ のアンチフォルムは、互いに運動し合い、統一感を作り出すよう定められた魅力と嫌悪の法則に従っている」。 それが想起させるのは、哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセッ トが著書『大衆の反逆』 (1930年)において示した、 現代社会における大衆のあり方ではなかろうか。オルテガによる大衆とは、「自分自身に特殊な価値を認めようと はせず、(・・・) 他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出している」人々である。そして問題は、自分自身 やまして社会を指導することのできない大衆が「完全な社会的権力の座に座って」いることであり、故にオルテガは当時の社会における「無名の意思」の跋扈と責任の消失を憂いたのである。

図録ではわずかに触れられる程度のコラージュ作品や油彩以外の作品についてはソフィア王妃芸術センターが様々な種類の作品を所蔵しているのでそちらが参考になる。雑誌や写真をコラージュしその上から色を乗せた作品はその後洗練させていったモチーフの胚胎を確認できるだけでなく、『La madriguera』や『サウラ家の人々』でカルロスにも影響を与えたことがうかがえる。

『秋の記憶』1954
『ナレーション』1963
『ナレーション』1964
『Montage No. 1』1974

彫刻作品  1960

またアントニオは映画や小説をモチーフにした作品を制作しており、そこにカルロスの影響を見ることもできるのかもしれない。ドン・キホーテ、ピノキオ、カフカの日記、『パスクアル・デュアルテの家族』(1989)などもある。

『パスクアル・デュアルテの家族』

高度経済成長期に入った頃から、制作体制を変えたようだ。

サウラは1965年と67年に、クエンカのアトリエで各 100点にも及ぶ作品を焼却している。そしてその後1969 年から1978年にかけては、油彩の制作を辞め、紙作品の制作と執筆に専念している。その期間にはこれまでに手掛けたテーマを版画や混合技法により再制作しているほか、新聞や広告、漫画などのスクラップ、絵葉書、写真といったレディメードのイメージを用いたモンタージュやコラージュ作品を多数制作した。80年代以降には書籍への挿絵や舞台美術の制作、また文筆家としての書籍出版など、活動の舞台を広げている。1997年まで活発に制作を続けたが同年白血病を発病、翌年クエンカで息を引き取った。

余談ながらアントニオはバルセロナ派のペレ・ポルタベリャ監督『Nocturno 29』(1968)にワンシーンだけ出てる。セリフはなく、仲間のイカサマを見過ごす役。

ルチア・ボゼーを相手にするアントニオ


●本稿からずれる内容だが、展覧会の開催意義と絡めて日本との関わりについても少しだけ触れている。戦後鈴木大拙、岡倉天心の著作を通じて第二のジャポニスムが欧州で流行すると、その波がスペインにも及ぶ。
タピエスが最初に読んだ日本の本は岡倉天心の『茶の本』だそうだ。彼の作品の一部に水墨画の影響が読み取れるとか。
アントニオに至っては甲冑を自分のスタジオに置いていた。

アントニオのスタジオ

また1960年来日した際のエピソードとして、具体美術協会により第9回具体美術展と共に開催されたスカイ・フェスティバルにて、大阪高島屋の屋上でミシェル・タピエと吉原治良が選定した内外の作家30名の作品をアドバルーンにより吊り下げて空に浮かべた。アントニオもその一人に名を連ね、このときの光景がよほど印象に残ったのか生涯にわたって凧をコレクションするようになったとか。

アンフォルメルバルーン

アントニオはふた世代上のフランシス・ベーコンと比較されることもあるようだ。ふたりとも幼くして療養生活を送り、独学で絵画を学んだ。シュールレアリスムに接近し、キリスト教美術を参照してとりわけ人物画の頭部に工夫をこらしていることだけ指摘しておこう。
またシュールレアリストといえば同郷のブニュエルがメキシコから帰国した際親交があった。彼についてはカルロスの作品と絡めてまた改めて

1960年
『ブニュエルについて』(1970)


■資料
ソフィア王妃芸術センター所蔵 
内と外―スペイン・アンフォルメル絵画の二つの『顔』カタログ

●https://www.antoniosaura.org/en/accueil
アントニオ・サウラ財団公式。基本情報と年代別に作品図録が見られる

●https://www.museoreinasofia.es/en
ソフィア王妃芸術センター公式(Museo Nacional Centro de Arte Reina Sofía、MNCARS)。20世紀の近現代美術を所蔵するマドリードの美術館。アントニオの油彩以外の作品があれこれ
ちなみに2024/2から6月までAntoni Tàpies展The Practice of Art開催中のようだ。


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