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【日本プロレス歴史発見①】日本プロレス最後のシリーズ、アイアンクローシリーズで最後の抵抗!

 日本プロレスの最後のシリーズとなったのが、昭和48年4月の「アイアンクローシリーズ」。この時期、昭和46年末に発生したアントニオ猪木の追放騒動の余波で大揺れに揺れていた。昭和47年7月にはエース・ジャイアント馬場が独立を宣言。開けて昭和48年、新日本プロレスとの合併計画が立ち消えになるものの、坂口征二ら数選手が3月を持って離脱。この4月に日本プロレスに残ったのはわずか9選手というところまで追い込まれていた。
 芳ノ里代表は、すでにシリーズを継続していく意思はなく、大木ら選手会主催という名目で「アイアンクローシリーズ」はスタートした。開幕戦は4月13日、その翌14日には、全選手が集まり、力道山家へ身元を寄せることを発表することとなる。その激動の2日間を振り返ってみる。

 まずは開幕戦の大阪府立体育館。かつては幾度となく、超満員をマークしたこの会場も閑散とした入りに、日本プロレス勢も現実を見せられた思いがしただろう。ちなみに主催者発表で4000人という観客動員ではあったが、かなりの水増しであったことは否めない。
 
 開幕戦は大木金太郎対フリッツフォンエリックのインター選手権を目玉カードとして6試合がラインアップされた。
 第1試合の伊藤正男対羽田光男、第2試合の桜田一男対キム・スン・ホーが行われ、第3試合として、松岡厳鉄対ジェリー・モンテイが組まれる。この試合は30分時間切れのドローに。

場外転落の松岡。場内の照明が暗いことも気にかかる。

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