【読書会】夢見通りの人々 宮本輝 ③ 人をなめとったらえらいめにあう -119
前回
○げえやんの言葉「人をなめとったら、えらいめにあう」を考える
弟子:では、続けます。げえやんの「いつまでも人をなめとったら、えらいめにあうで」という言葉、かなり印象的ですよね。なんというか、単なる忠告じゃなくて、人生の厳しさや現実を突きつけられるような感じがしました。
げえやんには、言葉が三つしかない。「厄介なことをせんでも、人間、生きてはいけるわいな」「楽しみなんて、そのときだけのことやさかいな」「いつまでも人をなめとったら、えらいめにあうで」
弟子の友:僕もその言葉には考えさせられたよ。普段はあまり意識してないけど、確かに人を軽く見ると、いずれしっぺ返しを食らうこともある。それを軽い口調で言うげえやんのキャラクターがまた深いよね。
師匠:その言葉には、人間関係の本質が含まれているな。「なめる」というのは、相手を軽視し、見下す態度だ。そのような態度を続ければ、相手の心に溜まった怒りや悲しみが、いずれ何らかの形で表れる。当たり前のことといえば、そうだが、このように文書にされると考えさせられるな。げえやんは、それを警告しているのだろう。
大師匠:この言葉にはもう一つの側面があるのではないか。「なめる」とは、自分が他人を完全に理解していると思い込むことでもあると考えている。相手を一面的にしか見ないと、その人の可能性や反応を見誤る。そういう意味でも、「えらいめに遭う」というのは避けられない結果だ。
弟子:なるほど、「軽視する、見下す」というのと、「理解していると思い込むこと」の見方があるのですね。確かに、私も、「あなたには、こんなことできないでしょ」とか「あなたには、期待はしていないよ」と思うことがあります。それが「なめている」のですね。自分が優位に立っていると思い込みたいのかもしれません。
弟子の友:仕事でも同僚や部下を軽く見てると、信頼を失うし、最終的には自分の立場が危うくなるということを、げえやんは言っているのかなぁ。そういう厳しい現実をズバッと突いてるんだと思う。
師匠:そうだな。人間関係は対等であるのに、相手を軽視する態度をとってしまう。それは、結局自分を孤立させる。げえやんの言葉は、そんな基本的なことを忘れてしまいがちな現代社会への戒めでもある。
大師匠:もう一つ考えたいのは、「人をなめる」とは必ずしも意識的な行動だけではないということだ。知らず知らずのうちに、自分が特定の人や状況を軽く見てしまうこともある。
弟子:それも問題となりますね。この言葉、自分への警告でもありますね。自分が無意識にでも人を軽視していないか、いつも振り返る必要があるなと思いました。
弟子の友:僕もそれを意識しなきゃなと思う。特に、親しい人や家族にはつい甘えが出て、無意識に軽く見てしまうことがあるかもしれない。そういう小さな態度の積み重ねが、「えらいめ」につながるんだろうね。
師匠:そうだ。そして「えらいめ」というのは、必ずしも大きな災難というわけではない。小さな失敗や、人間関係のちょっとしたほころびも含まれる。さらには、そういう態度が周囲にも感染して、そこの場所の雰囲気が悪くなることもあるだろう。げえやんの言葉は、日常の中で自分の態度を見直すための大切な教訓だ。
弟子:げえやんの言葉って、簡単なようで奥が深いですね。他人を軽視せず、自分の行動や態度を振り返るようにしていきます。それが「えらいめ」に遭わない秘訣かもしれないですね。
大師匠:げえやんのような「少し粗野だけど真理を突いた言葉」にこそ、真の価値がある。どんな人にも学びがあり、どんな出来事にも意味がある。それを忘れずにいこう。
○「夢」と「評価」をめぐる対話
弟子:里見春太の言葉、「夢はどこまでも夢にすぎない」「夢を望みに変えて進まなければならぬ」って、何か深いメッセージがありますよね。ただ夢を見ているだけではなく、それを行動に移すことの大切さを言っているように思いました。
夢見通りか、と里見春太はつぶやいてみた。夢はどこまでも夢に過ぎないが、美鈴はそれを確固たる望みに転じて、着々と進んでいると思った。夢を望みに変えて進まなければならぬ。
弟子の友:でも、彼のやさしさや行動が、周りに幸せを与えているのに、それが評価されるかどうかで自分の幸福度を測るようなところが、なんだか切ないんだよね。人に優しくしても、評価されなかったら、自分は幸せを感じられないのかなって。
師匠:それは興味深いテーマだな。人に優しくすること自体が、自分の幸せになるのが理想だが、現実には多くの人が「誰かに認められる」ことで、自分の価値を実感する。春太もそのジレンマに苦しんでいるのかもしれない。
大師匠:人は他者との関係性の中で自分を定義していることがあるな。誰かに認められることで自分の存在価値を確認したい気持ちがある。ただ、そこに依存しすぎると、評価されないときに自分の価値を見失ってしまう危険がある。
弟子:春太の優しさが、人から評価されなくても、その優しさによって誰かが幸せになったのなら、それだけで十分な気もします。評価を気にせず、人に優しくできるって、いいことと思うんです。
弟子の友:「ありがとう」や「助かりました」って言われると嬉しい一方で、それがないと寂しく感じますね。
師匠:自分が「これで良い」と思える心、すなわち「自己充足」を育てることが大事かもしれんな。優しさを与える行為そのものが、自分にとって意味があると思えれば、評価に左右されなくなる。
大師匠:他者からの評価を完全に無視するのも極端だな。他者の反応や感謝の言葉は、優しさの輪を広げるきっかけにもなる。重要なのは、「評価を求めすぎない」ことだ。評価は結果であって、目的ではない。
弟子:評価を目的にするのではなく、優しさそのものを楽しむことが大事なんですね。そう思うと、春太の優しさは評価されなくても、その行為自体が彼の幸せになる可能性もありますよね。
弟子の友:でも、評価を求める気持ちは、完全には消えるわけじゃない。それをどう受け入れていくかが課題の気もするな。
師匠:評価を完全に手放す必要はない。評価に振り回されず、適度な距離感を持つことが重要だ。春太の言葉、「夢を望みに変えて進まなければならぬ」というのも、その過程を象徴しているように思う。
大師匠:夢をただの幻想に終わらせず、それを現実の行動に落とし込むためには、他者の評価を恐れず、自分の信念に従う勇気が必要だ。そして、その行動が結果として誰かを幸せにするなら、それは最高の形だと言える。
弟子:そうですね。自分の優しさや行動を評価するのは、他人ではなく、自分自身だということを忘れないようにしたいです。
弟子の友:春太のように、優しさを持ちながらも、自分の中で満足できる強さを持てたらいいなと思います。それが「夢を望みに変える」ってことなのかもしれないね。
師匠:優しさも夢も、自分の中で完結する部分と、他者との繋がりで広がる部分のバランスを取ることが大事だ。それを学ぶために、春太の物語があるのかもしれないな。
つづく