新選組を0から学ぶやつ②安政から文久
①は上のリンクより読めます。
さて近藤勇やその仲間たちは、本来ならば剣の道を志してるけどそれ以外特に江戸で何か活動しているわけでもない平凡な武芸者として生涯を終えていただろう。本来ならば。
なぜなら仕えている主君が尊王攘夷活動を先導するような立場にあるわけじゃなく、あわよくば国家転覆とかデカいことを企んでいるわけでもない。
そんなのんびりと江戸で、前回の記事であげたような貧困や社会問題に苦しみながらも剣術に励んでいたノーマル標準スタンダードな日々とは裏腹に、遥か西の京都ではとんでもないことが起こっていた。
幕末の京都について
当時の京都といえば、将軍並に偉いけど力は持っていないという天皇が住んでいる日本本来の首都たる都である。この天皇は異国人嫌いであり、なんとしても幕府の力で国内の外国人を追い出して欲しいと考えている。
しかし当の幕府は「戦争になったら勝ち目ないもん」と思っているので、うまいことこれを誤魔化そうとしていた。これら幕府の弱腰姿勢が、いわゆる勤王家(天皇を敬っている人々)の間で批判されていたのだ。
なお、幕府はこの中傷していた人物を探して重い罰を与えている。これらを復讐するために発生したのが、「桜田門外の変」という今でいう現職総理大臣の暗殺事件である。
しかし、その後も暴走した勤王家たちは幕府への攻撃を止めない。「尊王攘夷」という正当性の下に、次々と幕府の要人を暗殺していた。
尊王攘夷=反幕府ではない
これだけ聞くと尊王攘夷派が反幕府勢力の総称だと思われがちだが、反幕府的な活動をしているのは一部の暴走した過激派である。幕府の中にも「幕府を中心に尊王攘夷はするべきだ」と思っている人はいる。分母は一緒なのだ。
しかし行き過ぎた思想は殺人をも厭わないような、手段を選ばない活動へとエスカレートする。「これは世直しだ」と言い張って人を斬る。恐ろしすぎる。
京都に将軍が上洛する
幕府はこの頃に、外国人を追い払って欲しい朝廷と、外国人を追い払えない幕府の間で生まれた仲違いを和解する政策を打ち立てた。これを「公武合体運動」という。
天皇家の娘を将軍家に嫁がせて、晴れて両家は縁のある仲。はい仲直りしましょうねということである。めちゃくちゃ幕府に都合が良くないか。
でも、朝廷的には「それで幕府が外国人を追い払ってくれるならやむを得ない」と、苦渋の決断をすることになった。
さて、再び京都に話題を移そう。
京都で尊王攘夷を唱えて暴走していたのは、主に長州藩(山口県)と勤王家の人たちである。天皇は長州への信頼が厚く、天皇の住む御所警備の任にあったので、これを利用して好き放題やっていた。
そんなエラい治安状態の京都に、公武合体運動の一貫でよりによって「将軍」が上洛することが決まる。幕府の人間が斬られているのに!
そこで、ちょーど良い将軍警護や治安維持の方法を、幕府側は思いついてしまう。
やっと主人公が登場 浪士組
ここまで書いてようやく、本記事の主人公である「新選組」の元となった組織が登場だ!複雑怪奇すぎるんだよ!それでも愛してるよ幕末。
京都どころか江戸周辺にも、いわば試衛館メンバーのように特に仕事もない浪士がゴロゴロ集まっていた。こちらも別に治安が良いとは言えない。
ということで江戸近辺で腕利きの浪士を集め、将軍を警護させるのはどうだ?という案が出る。ついでに江戸から怪しい浪士も追い出せるじゃないかと、幕府にとって一石二鳥の提案だった。
試衛館メンバーもこの浪士組に参加
浪士組の募集要項は犯罪者でもOKとか無差別なものであり、特に実績もない怪しい田舎剣法の集団である試衛館メンバーも、当然参加OKだった。
特に何かしているわけでもないし、将軍家を守るためにこの面子で腕試しができるなら悪い話ではない。
実際にどう考えたかはともかく、はからずも幕府による怪しいヤツ追い出し計画に試衛館メンバーは乗ったことになる。
怪しいやつから強いヤツまで浪士組!
素性が怪しい腕自慢が多いとは言ったものの、試衛館メンバーと比べれば別に怪しくない人材もこの「浪士組」にいた。
最強剣士として名が上がる「千葉周作」の弟子である「根岸友山」とかは良い例で、取り巻きを引き連れて参加している。(年齢は50を超えているが)
逆に、山梨の侠客である「祐天仙之助」などはバリバリ「ヤ」の付く人で、銀魂ファンならお馴染み「黒駒勝蔵」や「清水次郎長」などとも敵対していたという乱暴なタイプの人である。
オマケにこの人がかつて消した男の息子も浪士組に居て仇討ちを狙い、その後、仇討ちは成功している。なんだそりゃ。
この他にも、名が残る数多くの脱藩浪人や江戸中の怪しいやつが参加し、近藤らと一緒に京都へ上洛することになる。治安維持とは言うが、京都の治安をズタズタにする気かと思わんばかりであった。
清川八郎の目的
浪士組の策を献上し、幹部的なポジションで上洛したのは「清川八郎」という浪士である。どちらかというと切れる人物なのだが、あまり評価は高くない。
浪士組が京都入りした直後、この清川八郎は突如として「将軍警護なんてしない。俺たちは尊王攘夷の先兵として働くぞ」と言い出した。
実は清川八郎は、尊王攘夷の過激派組織を率いていたこともある。幕府も当然目を付けていた「過激派」だ。本来ならこんなやつの「幕府のための部隊です」なんて眉唾ものなんだが、幕府を騙すことに成功したのだ。
いや、何やってんだ幕府ーーーーー!!!!!
近藤たちは浪士組から離脱する
清川八郎のカミングアウトについて、そもそも「幕府のために働こう」と思ってやってきている近藤たちは全く同調しなかった。
他にも、茨城県出身の「芹沢鴨」一派、さっき出てきた「根岸友山」一派らもこれに反論。その他都合20数名が浪士組に異を唱え「俺たちは自分の仕事をするために京都に残るぞ」と言って離脱した。
一応公的な組織だった浪士組を脱退し、自ら主導でなんの後ろ盾もなく元々の目的を果たそうとすることとなる。
しかも一派の頭はみんなリーダー気質であり、俺こそが浪士組を率いる人間だと全く譲らない。金もなし、給料もなし、正当性もなし、リーダーは乱立……ただし、目的だけはハッキリしている歪な組織が誕生したのである。
こうして後に「新選組」と呼ばれる男たちの物語は始まった。