関ケ原と明治維新・日本史の因果について書いたやつ
1600年9月15日、現在の岐阜県に位置する"関ヶ原"では、未曾有の大兵力同士の合戦規模に違わない歴史的にも重要な戦があった。
「関ヶ原の戦い」である。
敗退した西軍は、代表だった石田三成を初め有力者が尽く処刑、自刃、討死。生き長らえた将達も、ある者は追放、ある者は大規模な所領没収と憂き目に合うこととなった。
全てが終わったあと、激動の時代を生き延びかつ絶対権力者となった、徳川家康の時代が幕を開けるのである。
そんなことは皆知ってるわー!!!!
しかし、この西軍に属したために転落し、不遇な結末を迎えた大名家には続きの物語がある。歴史とは面白いもので、これほど因果と呼ぶのに相応しい事実はないだろう。
本記事では因果について語っていくぞー!
因果――――――!!!!!!!!!!!
268年後まで続いた因果とは?
関ヶ原の合戦がどんなものだったのか、いちいち書いていたら4億文字くらいになりそうで面倒くさいので割愛する。
西軍は当初、東軍を囲んだ配置だったのは有名な話。四方八方あちこちに兵力を割く必要があった。息子の別動隊は到着しないし、圧倒的不利ー!
この配置図には兵力などが書かれていないが、左下の松尾山や右下の南雲山にいる小早川・吉川・毛利勢はいずれも1万の兵力を超える西軍の主力。主力部隊が徳川本隊の背後を突いていることになる。
さらに後方には長束正家や長曾我部盛親など、西軍に確実に味方する部隊がいる。ちょっとした部隊だけではとても凌ぎきれない兵力だ。
が、このうち小早川勢は寝返って西軍を攻撃。南宮山の方は吉川が徳川に通じて静観を決め、毛利秀元や長曾我部、安国寺恵瓊、長束なども吉川のせいで足止めされてしまう。背後を突く勢力が手を出せず終いであった。勝てそうな戦が、こうして音を立てて崩壊した。
毛利家の栄華も崩壊
何もできなかった毛利勢だが、この関ケ原ではあくまで西軍の味方として認知され大幅に所領を失ってしまう。ざっと112万石から30万石以下へ減った。
例えるなら、年収500万の人が年収150万まで落ちるくらいの影響力と言って良い。100万石を越える超大名なんて国内最強クラスの勢力だが、ちょっと豊かな大名クラスにまで落とされたのだ。
毛利元就によって基盤を作られ、織田・豊臣時代も敵対しながら生き延びてきた巨大勢力が、ただの地方勢力になってしまった。
島津もそれなりの痛手を被る
毛利家は超大大名だったのでかなり損失が大きく見える。
薩摩・島津は関ケ原の戦いに参戦しつつも、あまり直接戦わずに負けが決まると敵陣を突破して帰ったのは有名な話。この時の敵中突破で、島津家期待の星だった島津豊久を失っている。
ほうほうの体、ズタボロの状態だった島津だが、幸い所領自体は安堵され大大名の体裁は保った。一族は討たれているんですがね。
この島津、実は東軍に味方しようとして畿内まで来ていたが、その東軍に「お前なんて知らねぇぞ」と言われて仕方なく西軍についたのである。
その結果、なぜか味方しようとしたはずの徳川に討伐される側になるという理不尽な目にあったのである。
長曾我部も崩壊する
かつては四国を統一しそうだった、四国の最大勢力である長曾我部。長曾我部は最初から西軍だったわけだが、またこれも理不尽に前述の吉川の邪魔が入って現場にいながら戦闘ができなかった。
その後、なんやかんやあって地元・土佐を追放。後から入った山内家に、長曾我部シンパの大半が射殺されるというあまりに酷い目にあっている。不運とは言われるが可哀想すぎるだろ。
徳川幕府滅亡の「因果」
毛利、島津、長曾我部と徳川幕府によって理不尽な目に遭い、徳川幕府によって苦しめられた。長曾我部に至っては家は潰され人は討たれ、後に盛親も
徳川に処断されている。
しかしこれらの扱いを受けた国々……なんと関ケ原の戦いから260年後に、それぞれが徳川幕府を滅亡にまで追い込むキーマン的なポジションとなる
260年後の「敗戦国」
毛利の長州は朝廷からの信頼が高かった故に、好き放題やりすぎて幕府と衝突。しかし、最終的にボロ勝ちしてしまう。
島津の薩摩は徳川家の味方として戦っていたが、最終的に長州と組んで徳川幕府を滅亡までおいやり、明治維新をスタートさせる。
長曾我部の土佐は、坂本龍馬を始めとする活動家によって長州と薩摩が手を結び幕府の滅亡へ大いに貢献。その後も土佐出身者が明治時代を彩り大活躍した。
ほんと、いずれも関ケ原の戦いで負けて苦しんだ人たちの国。まさかここが時代を経て、徳川の滅亡に関わってくるなど誰が想像できようか……。できまい。
歴史には他にも因果がある
今回の関ケ原と幕末の因果は、江戸時代そのものをすっ飛ばす200年も空いた因果だ。まさかこいつらが徳川幕府を倒すとは夢にも思うまい。
他にはどんな「因果」が思いつくだろうか?
明智光秀を重用した織田信長。
源頼朝を助けた平清盛。
南朝と北朝。
各地に力を与えすぎた結果、発生してしまった戦国時代。
最大の味方でありながら、最後に最大の敵となった足利兄弟。
ざっとこんな感じであるが、歴史という物語は教養とか学問的な概念に限らず、時に小説のように奇妙な因果を生み出すこともある。
御年82歳の、私の師匠の言葉を引用しておこう。
「物語のように、日本史を楽しむべし」