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吉本興業の圧力

ダウンタウン松本人志の性加害疑惑にゆれる吉本興業。新たな火種が広がっている。吉本興業の直営劇場で開催するお笑いライブに、吉本以外の事務所所属芸人やタレントを出演させない方針になった。この件について吉本興業側からの説明が一切なく、吉本鎖国ともいわれ騒ぎとなっている。

吉本興業は大阪の『なんばグランド花月』、東京の『ルミネtheよしもと』を筆頭に、全国に12の常設劇場を持つ。特に渋谷の『ヨシモト∞ホール』や『よしもと幕張イオンモール劇場』など若手中心の会場では、吉本の若手と他事務所の芸人が競演することも多いようだ。実際大阪には松竹、東京ではケイダッシュ、マセキ、タイタン、太田プロ、漫才協会といった他事務所の漫才師も多数いる。それぞれ色があるものだ。

逆に吉本の芸人は、若手の自主ライブや他事務所の合同ライブに出演することはほとんどないという。その点、吉本芸人がどこか独特のタイプである一因である。今回の措置で多くの芸人が困惑してるようだ。

落語家の立川談慶は養成所系のお笑い芸人が「テレビが進化するとともに発展した存在」と位置付けている。芸人の目的は劇場の舞台で笑いを取ることより、テレビに出ることに移ったのだろう。

ひな壇芸人などテレビに必要とされるリアクションやアドリブのセンスさえ持ち合わせていれば、養成所からスタートすることがプラスになるようだ。それが台本のやり取りよりもどつき漫才といった動きを面白がることにもなっていたのだろう。

吉本といえば養成所の吉本総合芸能学院だが、養成所設立にはきっかけがあった。あまり知られていないが松竹の喜劇俳優であった曽我廼家明蝶(白い巨塔の財前又一役で知られる)が1964年に設立した明蝶芸術学院である。

長年喜劇人として活躍する曽我廼家明蝶は芸人の教養やマナーの低下を憂えていた。そこで立派な社会人として通用する芸人を作りたいという思いから、学院の顧問として劇作家の北条秀司と漫才作家の秋田實、一流の講師陣を迎え、演技の基礎から落語、脚本、日本舞踊、洋舞、放送業務の実技など多岐にわたる授業を展開。資金難や明蝶の病気などで8年で終わったものの、師弟を基本とする演芸界には衝撃だったようだ。明蝶芸能学院は海原はるか・かなた、 横山たかし・ひろしといった漫才師を輩出している。戦前にも吉本内に秋田實が主宰した「漫才道場」という養成システムはあったが秋田の移籍により短期で終わった。吉本総合芸能学院も初期は漫才コントに加え、殺陣やダンス、日本舞踊もカリキュラムにありその影響は見られる。

こうした養成所から大量に芸人を送り込むシステムは、師匠格の芸人が経済的理由で次第に弟子を取らなくなったという理由もあり、芸人の安定供給にプラスとなり主流となった。しかし立川談志が初代桂春団治の最期を例に挙げ「あそこの使い捨て体質は戦前から」と評するなど、芸人の入れ替わりが激しくなる負の側面にもなる。またテレビと劇場で求められる笑いが異なり芸人の質の変化にもなった。

吉本興業の鎖国主義というのは戦前よりあった。

暉峻康隆著「落語の年輪」には春団治のラジオ出演という小題で、晩年の春団治と吉本のいざこざを紹介している。

参考にすると、大正14年中に東京に続き名古屋と大阪で放送局が開局。ラジオ騒動が持ちあがった。大正から昭和初期の大阪落語界は、興行本位で漫才中心の吉本に押さえられ、青息吐息といっていい状況。落ち目の大阪落語会を一人引っ張るのが桂春団治だった。その春団治も大正10年に高待遇で吉本専属の身となっていた。ところが大正14年に大阪でJOBKが開局し、ラジオの普及に伴い東京と同様の影響が出た。すなわち、寄席や演芸場に客がこなくなったのである。

影響は続き、昭和5年には、吉本は所属芸人から公正証書を取り、ラジオ出演は全て許可制とした。さらにギャラはすべて吉本が受取、一部を芸人の前借金の返済に充て、残りを渡すという仕組みとした。これではBKも芸人も当然おもしろくない。この年の12月に春団治は横紙破りの形で無断でラジオ出演し「祝い酒」を演じた。当時の週刊誌では、突然春団治を拉致の形で連れ込み、放送室に錠をかけてやらせたとあるから、物騒なことである。よほど吉本のやり口に不満だったのだろう。

吉本側も春団治に6000円も前借をさせていたという事情もあり、面目を潰された格好。再三呼出をかけたが姿を見せない。そこで春団治名義の茶屋と本宅を差し押さえた。後世によくみられる口に差し押さえの紙を貼られている写真はこの時のものである。差し押さえによって宝塚少女歌劇団の演出家、坪内士行氏が仲裁に乗り出し、妥協案を打ち出すなど騒ぎとなる。ところがこの事件が大きく報道され、春団治の人気が一層高くなった。ラジオで放送を聞いた聴取者が、吉本系の寄席に押しかけ、春団治の出演を要求するという状況に。こうなると春団治の切り捨ては到底できない様相となった。吉本の文芸部長であった橋本鐵彦は、社長の林正之助に「ラジオの力を認めないわけにいかない」と、和解を提案した。そこで興行部は林家染丸(2代目)、三遊亭円馬(3代目)、桂三木助(2代目)など春団治と近い落語家を仲介に立て、ようやく事態は収まった。

喋りを売りとする興行側にとって、マスメディアであるラジオの登場はかなり警戒感があったようだ。しかし身振り手振りがなく音声のみの落語をラジオで聴いて、興味を持って寄席に向かうというのは自然の流れであった。東西ともラジオは商売敵ではなく、PRの手段となることに気づくまでのトラブルと同書は締めている。

皮肉にもこの時の一騒動によって吉本がマスコミを掌握するきっかけになったという。吉本の発展の一方で春団治は多額の負債を抱え、生活は沈んだまま昭和9年に胃癌で亡くなっている。

以来現在まで芸能界どころか日本を掌握しているといっていいほどの吉本興業だが、このところの騒動はジャニーズ閉鎖並みの危機なのか。

元はと言えば暴力や暴言ととられかねないことも芸として面白がる風潮が今回の一連の吉本興業の問題につながったと愚考する。松本人志の今後は厳しいが、落語家のパワハラ問題と合わせ演芸界は判断を迫られる。




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