桂文楽に「小言を申し上げます。小ゑんここに来なさい。こいつはいけません。師匠に向かってあなたの年になればわかりますなんて口の利き方をするんです」とよく小言を食った談志。
生意気だから二つ目にさせないとも言われたが、三木助からはあれだけうまけりゃ生意気でも仕方ねえとも言われたとか。しかし円生はもっと後になって円生なりの比喩的な表現で談志を諫めた。
しかし談志は談志でひどいもので負けてない。
本当に言ったのか定かでないが談志であればあり得るのだろう。もっとも円生師は亡くなる1年前に落語協会脱退し新団体設立、目論見が外れ円生が看板となって休みなく高座を務めたが、高齢の身にこたえたか急死した。ある意味死ぬ間際まで全盛期を保ったが、地方巡業が多くなったことで芸の質は落ちたともいわれる。談志は圓生の代演も務めたがスケジュールがびっしり詰まっていて驚いたという。
さらに前座名についても
名前は下手すると芸人の活動の場を狭めるとも。真打になるときは「つばめ」を断ったようだ。最近は亭号もオリジナルの芸人が増えた。ありきたりな名前より記憶されるだろうが… 逆らえない世界とあるがやはり閉鎖的な面が今回の訴訟につながったのだろう。芸名をめぐってもいろいろあるのだろう。
何かと傍若無人さが目立つ立川流だが、談志は自分の嫌なことは弟子にさせなかったという。口は悪いが手は出さないとは弟子の評。夜に用事を言いつけるといったこともせず、割り合い自由があったとか。お前たちは使用人ではないといい、家族が用に使わせることも許さなかった。