はなしの土俵~明治の相撲・型~
大相撲中継。専属解説に元琴風が就任。初日解説に名前があり?と思ったが 北の富士、舞の海、琴風で盛り上げていきたいとのこと。サンデースポーツで馴染み深く適任である。3人体制とはいえ実質北の富士の後任だろう。もう2年近く休みとなる。来年で83歳という年齢からみて、復帰は難しい。再雇用期間を途中で退職もこの話があったからと推測。北の富士降板後の体制が着々と整えられつつある。まるで池田大作不在後を想定し、体制を整えていた創価学会のよう?
浪ノ音というのは小兵で知られた。165cm、80㎏程の体は当時としても普通以下。その秘訣は
逆鉾。過去6人いるようだが3人目。明治4年生まれ、明治29年に入幕。明治後期の土俵で168cm、80㎏程の体ながら押しや四つでの攻めが強く、名人とも称された。名人という称号は以降数多くの力士がいるが、初期の存在といえる。
後進の面倒見の良さに定評あったようで、他の力士にも逆鉾に極意を教わって開花したという話がある。この時代には珍しい。
稽古のやり方
稽古の方法も明治はかなり違ったという。
明治期までは勝負をつけない相撲というのも多かった。 引き分け預かりの多さによって明らか。明治40年夏には横綱大砲が9戦9引き分けを記録。大砲は負けてはいけないという教えによって、防戦一方で凌ぎ引き分けに持って行ったとのちに語っている。横綱だけにこの記録が目立つが、当時は引き分けは日常茶飯事で、同じ場所の幕内で引き分けなしで終わった力士は39人中13人。といってもこのうち荒岩は途中休場で12人。この中に突き一本の太刀山が目立ち、他は小兵の緑嶋、碇潟といった小兵力士が多い。
この頃は引き分けにあえてもっていくという戦法もあったという。 明治42夏の大関国見山も5分を記録。
明治42夏、大正3夏、大正8夏の幕内の引き分けをみると明治42年は22番、大正3年は9番、大正8年は4番。引き分け預かりは大正期までは日常的だったとはいえ急減した。
大正以降になると突き一本の太刀山の天下、栃木山らの登場で勝負をつける相撲が急増したことに違いない。
いわば自分の型で防御を取り引き分けにつないだのではないか。そのためには型を磨くことが重要だったと愚考する。
今の相撲が型がなくなってるとし
栃木山という人は自分が絶対に廻しを取って出ることはなく、相手に取られても必ず切ってから仕掛けたという。 この徹底ぶりも型といえるか。雷電の全盛期は客が雷電が土俵に上がると帰り始めたという。見なくても決まってる、見るのもつまらないという気持ちだったのだろう。雷電の敗れた相撲は客が少ない中でのことだったか。
取り口もやはり変わったという。
押し相撲はもっと早かったという証言。やはり残されると引き分けにもっていくこともできたからだろうか。仕切り時間も長いだけ決着は早くという気構えもあったはずだ。立ち合いの呼吸もまったく違うだけに比較も難しい。