岡崎体育『式』の解釈Ⅱ
経験と『式』が重なったので、僕の解釈を好き勝手に語りたいわけです。リスペクトしたうえで。その2。
生活の一部を切り取った風の定点MV。いい感じ。
別れるときの虚しさは、もっと語りたいと願うから感じるのか。「血の通った話がしたい」とは、共感しあうのではなく、もちろん酒の通った言葉でもない。これでまた生きてゆけると思う会話があったはずです。そういう人がいたはずです。僕はまだ若くて、目がよく見えています。言葉は何も通っていないので、黙らざるを得ませんが、黙ってもいられないんです。
子どもと老人は似ています。僕は高校生の2,3年まで自意識がほぼありませんでした。今もないかも知れません。生かされている感覚です。介護体験で訪れた施設で、うたた寝するおばあさんを見ました。
ーこの人はここで生かされている。ー
この先待ち受ける終末のように、埃がチラチラ舞って穏やかに燃えていきました。西日が差す部屋の神秘的なこと。生と死どちらの瞬間に立ち会ったこともありませんが(生まれてはきたが)、そのイメージがふっと降りてきて去ってゆきました。
迷惑をかけているという自覚はあるのに、迷惑をかけない生き方は想像できません。半ばあきらめているようで、心残りなこと。誰かからみたら、この笑顔も恨めしいのかも知れません。だから黙っています。だけど、やっぱり黙ってはいられないんです。この気持ちの繰り返しなんです。