ひとことはなし90
2020 10 27
「心定め」の意味は、信仰年限をお持ちの方は理解できていると思います。が、まだ信仰的に浅い方にしてみれば、「なに、心定めって」となると思いました。
簡単に言えば、「神様との約束」でしょうか。
人と約束をした場合、それを破ると,その人からの信用を失いますよね。
「あの人は信用できない」となります。
神様との約束も同じだと思います。
「神様」と表現しても、人間みたいに見えませんから、その辺りが自分の心の持ちようになります。
要は、目に見えない神様に「今後私はこのように勤めます」と、約束をすることを「心定め」と言います。
「心定め」も短期的なものから中、長期的なものがあり、又個人でする心定めから、教会全体で定めるものもありますね。
神様は「心定めて願うなら 自由自在に今の間にも」と仰せであります。
ここからは2024年10月20日に書きます。外はお天気です。
僕の信仰は20歳から。今現在57歳なので、約37年の信仰。
ここまで信仰をしてきて思うのは、今更ですが「不思議自由の理」がほしい!。
というのも先日、信者さんにおさづけを取り次ぎました。
この信者さんの御主人は信仰に理解がないので、御主人が出かけたのを見計らって、その娘さんからの依頼でした。
「会長さんにおさづけを取り次いで頂きたい」との切なる思いが娘さんにあった。
実に数年振りにお会いでき感動。早速おさづけを。その取り次ぎの最中「俺に不思議自由の理があれば」と強く思ったのです。
その信者さんは病気から会話ができない状態。ただこちらの話は理解されているので相槌は打ってくれる。
「この人と会話がしたいなー」と思ったので、それにはおさづけの理。
効能の理が頼りとなる。
これまでの僕の信仰年限の中で、劇的に不思議な理を見せて頂いた経験がない。
これはとても悲しい。
私の祖母である連山三代会長様のおさづけは凄かった。
どんな人でも祖母にお願いしてもらえば必ず不思議な理が戴けた。つまり、神様が動いた。
ある方は足の踵が曲がらない。つまり足の付け根から足の指先まで真っすぐという奇病だった。なので歩けない。
無論、病院、針治療等、お金にものを言わせてありとあらゆる医療を受けた。が踵は真っすぐなまま。
それを聞いた三代会長様。
「おさづけをさせてもらおう」と、初対面のその方に取り次いだ。
「立ち上がりなさい」と声をかけた。
その瞬間だ。
立ち上がった瞬間「ゴトッ」と音がした。なんと踵が曲がったのだ。本人さん「立てた。歩けた」と涙を流しながらつぶやいた。
その場に居た人たちはあまりのことに言葉を失った。という話がある。
ほんの一例だ。
「そうなりたい」と、僕は強く思うのだがそうはならないのが悲しい。
「神様はある。ない」という論議になる場合がよくあるが、おさづけで不思議な理を見せて頂ければ「論より証拠」となる。
「俺もそうなりたい」が今もってあるがそうはなっていない。
そういう訳で、今自分がもっとも欲しいのは「不思議自由の理」だという話でした。
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