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ジョン・ミルトンの『失楽園』におけるアダムとイヴの髪
ジョン・ミルトンの『失楽園』
授業で、ジョン・ミルトンの『失楽園』(1667年)をやっています。初めてアダムとイヴが登場する場面に関して、講義を補足します。特に、二人の髪に関して。学生たちはここまで深く考察しなくてもよいのですが、私自身が今非常に関心をもっているトピックなので、お話させてくださいませ。
![](https://assets.st-note.com/img/1655517429804-jcm0be8vVH.jpg)
当該箇所を引用します。翻訳は、岩波文庫の平井正穂先生の訳を参照しつつ、私なりに変えました。
. . . And hyacinthine locks
Round form his parted forelock manly hung
Clust'ring but not beneath his shoulders broad.
She as a veil down to the slender waist
Her unadorned golden tresses wore
Dishevelled but in wanton ringlets waved
As the vine curls her tendrils, . . . (Paradise Lost, IV, ll. 301-307)
. . . [アダムの]ヒアシンス色の髪は
左右に分けた前髪のあたりから男らしく
垂れていたが、肩より下まではなかった。
彼女[イヴ]のほうは、その細い腰のあたりまで
飾りもつけず櫛を入れることもない金髪が
ヴェールのように垂れていた。その豊かな巻毛は
葡萄の蔦のようなウェーヴを描いていた。
![](https://assets.st-note.com/img/1655517429761-i1EsNBWfO8.jpg)
美しい描写です。特にイヴの髪が美しく、また、エロティックですらあります。アダムの髪が肩まで、イヴの髪は腰まで、さらに、イヴの髪が「ヴェールのよう」「飾りもつけず櫛を入れることもない」ーこれらの表現を、歴史的・文化的背景を探りながら分析しましょう。
女性の髪は長い
男性よりも女性の髪が長い、というのは、現代社会において、統計学的には真実だと思いますが、個人のレヴェルでは、髪型も髪の長さも人それぞれです。
ところが、前近代のイギリスにおいては(ヨーロッパ全般かもしれませんが、他の国のことはわかりません)、女性の髪が長いのは、ジェンダーではなく、セックスの特徴であると思われていました。すなわち、文化的ではなく生物学的特徴でした。女性は体のなかに水分が多いので、当然髪も長くなると思われていたのです。(四体液説に拠る考え)。
現代では、髪が長いというのは、女性性の特徴として「付加的な」ものですが、当時は、「本質的な」ものだったのです。
one-sex model
さらに、当時の性差に対する考えは、男性と女性は二つの別々の性であるという考え(two-sex model)ではなく、one-sex modelといって、女性は男性の未完成形だと思われていました。女性は性器が未発達で、何かの拍子に性器が発達して男性に変身することも可能だと思われていました。実際、「変身」のエピソードがいくつも伝わっています。
女性が男性に変身すると、髪も自動的に縮んで、その代わりにひげが生えてきたそうなのです。
髪が短いか長いかによって、男か女かが決まるので、髪の長さは大変重要でした。男性性と女性性の本質を形成するものだったのです。「罪深い」「自然に反する」という言葉を使って、長い髪の男性を厳しく非難するパンフレットの類がたくさん出版されました。
女性の長い髪は「覆い」
そのようなパンフレットのなかに、女性の長い髪が「覆い」(covering, cover)であり、それは、男性に対する「従属」を示すものだという記述がしばしばみられます。
それに関連して、以下の3つの事柄が指摘できます。
1)「覆い」という言葉は、聖書の「コリント人への第一の手紙 第11章第15節」の記述―「女にとって長い髪は栄光である。長い髪は覆いとして与えられているのだ」―に端を発しています。聖書は解釈の余地がある記述が多いですが、ここもやはり意味は判然とはしません。
2)covertというのは法律用語で、女性が男性の庇護下にあるという状況を示す形容詞、coverture(これも法律用語)は、その状況を示す名詞です。
3)中世以来女性は髪に飾りをつけていましたが、16~17世紀にかけて、その慣習が徐々にすたれていきました。髪飾りではなく、髪そのものがcoverになっていったのです。
ということは、女性の髪というのは、1)自らの顔や体を覆い隠すものであった、2)家父長制における従属の象徴であった、3)髪飾りの代わりに髪そのものが飾りになった、ということがいえるでしょう。
イヴの髪が「ヴェール」のようだという形容には、このような3つの意味が錯綜しながら存在していると思われます。
17世紀英国
ここで時代の考えもみなければなりません。17世紀というのは清教徒革命(1642―49年)があった時代です。人々は王党派と議会派に分かれて闘っていました。
王党派の男性たちは長い髪、議会派の男性たちは短い髪にすることで、互いを区別していました。議会派の人々はその髪型によって、roundheadすなわち円頂党とも呼ばれていました。議会派は王党派の長髪を男らしくないといって批判していたのですが、王党派は、女性は髪を結うか飾りをつけるかするが、男性はそのようなことはしない、これが男女の性差である、と主張しました。
イヴの髪が「飾りもつけず櫛を入れることもない」と描写されることに深い意味があることがわかるでしょう。これは議会派、すなわち、ピューリタンの立場の表明なのです。結わないし、飾りもつけない、自然のままに垂らしておくーイヴがエデンの園にいるから髪に人工の手を加えない、ということもあるでしょうが、宗教的・政治的主張でもあるのです。さらに、上記3)でいったように、髪型の歴史的変遷の表われでもあります。
アダムの髪は肩まで
さて、アダムの髪が短髪ではなく、肩まであるのはどうなのでしょう?議会派(ピューリタン)は短髪のはずでしたが。ミルトン自身が肩まで髪を伸ばしていたそうです。
実はミルトンによるアダムとイヴの描写は完全にピューリタン的ではなく、曖昧で怪しげなのです。イヴの髪がエロティックといいましたが、naturalだからpureであるとは言い切れない部分があるのです。それに関してはまた次回に。