尹健次「『在日』を生きるとは」岩波書店
先週、昨年起きた「ウトロ地区放火事件」に対する実刑判決が下った。この事件は京都府宇治市にある在日コリアンの居住区に「ウトロ平和祈念館」が建てられることを知り、それに抗議する形でかなり衝動的に放火に走った青年の犯行だった。在日=反日というSNSの主張があたかも真実のように思い込み、ウトロの歴史も実情もしらないまま憎悪を膨らませたというわけだ。
近年、在日は日韓関係や日朝関係が悪化したりすると、真っ先に憎悪の矛先を向けられる存在になってきた。「不法占拠をしている」「国から特権を受けている」「反日の拠点になっている」などを理由に仕立て上げられ、ヘイトスピーチやヘイトクライムの対象に簡単になってしまうわけだ。アメリカにおけるアジア人に対するヘイトクライムやヘイトスピーチが実は足元で在日に対して行われているという残念な現状がある。
それにしても、日本人のどれだけの人が在日の実情と歴史的背景を本当に理解しているのだろうか?
という俺も在日の友だちがいるわけでなく、以前同僚に在日がいたこと以外、何もないのだから偉そうなことは言えないが、今回自分なりにいろんな文献にあたってみた・・。本著はそういう在日を俯瞰的に理解できる入門書として実によく書かれていると思う。今回、ある講座で在日をテーマとして語る機会があり、いろいろと学ばされた。
まず、在日という言葉について本著ではこう説明している。
「在日という言葉は1970年代後半以降、2世、3世の若い世代の新しいアイデンティティの模索と関連して使われだしたもの」
「在日朝鮮人(1945年以降に日本に居住していた人々)」と「在日」ではその意味合いが違うというわけだ。当然100%朝鮮オリジンの1世と日本生まれの2世、在日を隠して生きた3世、あえてそのルーツを明らかにする4世ではそのアイデンテイテイも大きく異なる。
在日の歴史で重要になるのが1947年、1952年、1991年の3つの出来事だと言える。終戦当時日本にはなんと240万人に及ぶ在日がいた。しかし、敗戦となるや状況は在日の排除に舵が切られる。1947年には日本国籍を維持したまま「朝鮮籍」として外国人登録が義務化され、1952年サンフランシスコ講和条約後には日本国籍を一方的にはく奪され、「無国籍者」となってしまう。もちろん日本国籍がなければ社会保障の対象とはなりえない。日本軍として命がけで戦った在日の人々には何の恩賞もつかなくなったというわけだ。
こういう差別の上に日本戦後史は立っている。朝鮮部落の人には国籍もなければ当然職業選択の自由もない。だから独特なアンダーグラウンド文化を築く以外なかった。
こういった排除と差別の中を忍耐し続け、国際世論も味方につけて勝ち取ったのが1991年の入管特例法(特別永住権の獲得)ということになる。現在在日に該当する人々のうち「韓国籍」は45万人、「朝鮮籍」は3万人いるのだから、この3万人については「無国籍状態」であることに変わりはないのだが、少なくとも日本国憲法25条の定める「最低限の生活」は在日にも適用されることになったわけだ。
在日は韓国においても「半日本人」として見られており、国内の韓国人と同じ扱いではない。彼らのアイデンテイテイは「日本人でもない」「韓国・朝鮮人」でもない、「在日」なのだ。特に在日3世の多かった70年代後半にこの「在日」ということばがそのアイデンテイテイと共に形成される。
ある意味在日独特の「反骨精神」が力道山を生み、松田優作を生み、孫正義を生んだのかもしれない。
俺の場合、だから「在日と親しくしよう!」なんていう結論になるわけではない。俺は少なくとも憎悪に振り回され踊らされているSNSの動きをけん制していきたい!マイノリティの「理解者」でいたいだけだ。無関心ではなく関心をもって今後の在日社会を見ていきたい。
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