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姜克實「自由主義の背骨 石橋湛山」丸善ライブラリー

戦後の日本で異彩を放つ元首相、言論人であった石橋湛山。氏については気になる存在ではあるのだが、まだ知らない部分が多い。

戦前戦中のファシズム社会においても自らの主張である小日本主義、反ファシズム主義を貫いた。そこまでは知っていたのだが、あの全体主義の真っ只中でどうやってそれが可能だったのか?多くの知識人が転向を繰り返す中不屈の抵抗はどのようになされたのか?そもそも湛山の思想とは何だったのか?それはどんな背景をもって生まれたのか?そういった疑問に答えてくれる一冊だった。

湛山は1884年日蓮宗僧侶の長男として生まれている。幼いころから父の宗門の兄弟分であった住職によって教育をうけた。かなりの問題児だったらしいが、住職の「沈黙で語る」教育があらゆる面で思考を深めさせ「徹底した個人主義」を学んだ。

その後、中学時代にはクラーク博士の薫陶を受けた大島校長から「剛健な開拓者精神」を学び、日蓮とクラークという東洋と西洋の2先覚から感化を受けた。日蓮宗には国家主義的な側面がよく見られるが、湛山はプラブマテイズムの「人生中心」の世界観をモットーとしていた点で異端であった。

湛山にその後、決定的な影響を与えたのは進学した早稲田大学哲学科で出会った田中王堂。王堂はアメリカ留学中ジョン・デユーイの直接の指導を受けた。つまり日本でのプラグマテイズム学問の草分け的な存在だったのだ。その王堂から受けた哲学的な素養が後の湛山の思想の背骨になっている。

彼の思想的闘争は「東洋経済新報社」入社を機に始まる。特に思想統制に対する徹底した抵抗は当時の教化政策や治安維持法、アジア拡張主義に強く向けられた。アジアとの関係に関しては搾取や強奪でなく育成と互恵を基本的な方針とし、植民地政策にも厳しく批判を加えた。しかし湛山はケインズ主義者でもあった。いまでいうリフレーション信奉者だ。

ある意味それは危険性もはらんでいた。あの高橋是清の先をいっていたのだ。だから経済学者からは集中砲火をあびることもある。また思想的に継続的主張ができないと判断したときには「満州支配や大東亜共栄圏の容認」をするなど思想的退却もしている。完全無敵のガチガチの思想家でないあたりが「生き残り戦術」も持ち合わせる図太さをみせている。

このあたりが俺にとって共感を覚えたところだ。現実を無視した頑固一点張りの思想家でなく、ちゃんと「生き抜いて」自らの信念を貫いていく老獪さが彼をして首相にまで押し上げたのかもしれない。

あまり知られていないが彼はまだ国交のなかった中国との関係改善に向けて、周恩来とも会っていた。日米中ソ安全平和同盟という当時としては「非常識な」構想に向けて真剣に動いていたのだ。こういう侍が昭和の時代に生きていたということが実に感慨深いし、シンパシーを感じる。石橋湛山!気骨のある日本人、やはり気になる。

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