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喜多白浩「イムジン河物語」アルファベータブックス


俺は全く知らなかったし、関心も持っていなかったのだが、県民カレッジでの講座で「離別」といったテーマで材料を探していてこの歌にたどり着いた。調べてみると実に多くの背景があって面白かった。

もともとこの歌は1957年に北朝鮮でソプラノ独唱曲として生まれた。名前は「リムジン江」である。しかし、当時は威勢の良い軍隊曲ばかりが奨励される時代であったため、この歌は全く知られることなく葬り去られた。

ところが1968年、「帰ってきたヨッパライ」で一世を風靡していたフォーク・クルセイダーズ(以下、フォークル)が第2弾としてこの歌を「イムジン河」として発表しようとした矢先に、朝鮮総連が強烈な抗議を浴びせ、発売中止になっていたのだ。ちなみに俺はこのフォークルというグループも知らなかったが「オラが死んじまっただ~♪」は知っていた。

このグループをプロデュースしたのが東芝音工(レコード会社)の辣腕ディレクターであり、俳優高島忠雄の弟であり、ビートルズを日本に誘致した高嶋弘之だった。朝鮮総連からの抗議内容は作曲者不詳、朝鮮民謡、作詞松山猛となっていたことによる。ここに朝鮮民主主義共和国と作詞者である朴世永、作曲者の高宗煥をいれるように要求したわけだ。

東芝としては当時国交のなかった国の名前を出すわけにもいかず、当時の朝鮮総連の組織の強靭さからいっても太刀打ちすることもできない。そこで、発売中止に追い込まれたわけだ。

その後、朝鮮総連は新しい形で「リムジン江」を左派色の強い大阪労音傘下にあるユニゾン音楽出版社から誕生させる。歌い手は早稲田大学のアマチュアバンド「ザ・フォーシュリーク」リーダーは神部和夫(歌手イルカの夫)である。30万枚は売れたらしい。

それを知ったフォークル、作詞者の松山は驚きとともに「このまま葬り去られるのは絶対避けたい」との思いで小さなレコード会社ミュージックファクトリーから「イムジン河」を出したらしい。後に第3次フォークルのメンバーになった坂崎幸之助(アルフィー)はこの曲が契機になってバンドを始めたらしい。

原曲を作曲した朴世永は京畿道の出身で1948年に越北、詩人として活躍し国家を作詞している。家族を南に残してきたため、その思いが「リムジン江」に詰まっている。本来こういった内容は北朝鮮でスパイ疑惑を掛けられかねない事項であるが、詩人としてのステータス等が作用し奇跡的に世に出たという。

この歌は北朝鮮では無視されたが、日本に渡っていった在日の心を鷲掴みにし、在日の間で愛されてきた。日本で発表中止となった1968年はまだ北朝鮮を好意的に報道している頃であり、日本国内で「リムジン江」や「イムジン河」が受け入れられる土壌があったこともある意味奇跡といえるだろう(今のような状況なら100%拒否される)。

2001年、リムジン江は北朝鮮で初めて公のものとなる。キムヨンジャの平壌公演である。2000年、金正日と金大中による南北首脳会談が契機となって、南北交流が一気に進んだ時期だ。(訪朝期間中に別途金正日に呼ばれて「一人だけのコンサート」をさせられたらしいが、このとき金正日はこの歌を知らず、反応もなかったらしい・・)この時、周りの人と比べ物にならないほど感銘をうけていた人がいる。蓮池薫氏である。脱北する日までこの歌が心の支えになったという。キムヨンジャがこの後日本でこの「イムジン河」を歌うことで、フォークルをしらない多くの人にも知られることになる。

日本音楽著作権協会のサイトで「イムジン河」を検索するといろんなアーチストが歌ったり演奏したりしていることがわかる。イルカ、ばんばひろふみ、ダカーポなどのフォーク歌手から渡辺香津美といったジャズギタリストなど、実に多様だ。「アジアのイマジン」という別名が業界ではついているようだ。そんな名曲の背景をつぶさに本書では伝えている。最後の一節が印象に残ったのでそのまま転機する。

「イムジン河・・それは約60年前、北朝鮮という国で始まった、一滴のしずく。源流は、長い長い、曲がりくねった隘路を歩みながら、とうとう流れる大河となった。途中で干上がったり、消えてなくならなかったのは、この歌自身が持つ魅力と共に、多くの人々の熱く、強い想いが込められているに違いない。イムジン河は希望である。過去を振りかえるのではない。この歌に、未来を託してこれからも世界中で歌い継がれてゆくだろう・・。」

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