坂口恭平「独立国家のつくりかた」講談社現代新書
表題をみて、「ま、表題でつるやつね・・」って感じで斜に構えて読んでみたら、「お!そうきたか!」と何度も膝をついてしまった。良い意味で予想が外れた。こういう出会いは好きだ。
著者、坂口恭平については「苦しい時は電話して」という本で初めて知った。まわりにいる苦しんでいる人をどのようにサポートしたらいいかわからないときに出会った本だ。かなりの説得力があった。
実は、筆者自らが躁鬱を患っており、常に自殺願望にさらされている。その中で生き抜いている人なのだ。
「金がなきゃ本当に生きられないのか?」
シンプルな質問だ。筆者が子どもの頃からもっていた違和感・・。社会人の常識から考えれば「あたりまえじぇねえか!」となる。しかし、大学時代に路上生活者の生活実態をフィールドワークした知見から独特の論を展開する。独自の論の中心は「態度経済」だ。
「態度経済」とは、この世界に散らばる多層なレイヤーを高解像度の視点で把握し、ジャンプして移動しながら、独自のレイヤー上の行動を実践し、人々やモノと交易することから始まる。それはこれまでの優劣やヒエラルキーの世界とは違い多層な唯一の生き方のことなのだそうだ。 何のこっちゃ?
簡単にいうと「考え抜いて、自分の視点と立場を打ち立て、社会の役に立てる次元に立とう」といったところか。
正直驚いた・・。こんな視点をもった40代が日本にいたんだ。しかも口だけではなく有言実行・・。
態度経済というユニークな切り口を自らのレイヤーとし、現実と乖離せずに結果を残している。路上生活者から究極の「生き抜く知恵」を学び、「住まい」を規定する法律が何もないことを知り、日本各地に日本国憲法第25条を守った安全地帯をつくる「O円特区」を「モバイルハウス」という手段で実現、ビジネスモデルまで構築している。もちろん道半ばなのだが、独立国家というにふさわしい、各分野のパトロン(専門家の知見から具体的な経済支援者まで)を同じベクトル上に携えている。
電気を自ら作り出すことを路上生活者から学び、電気代ゼロが可能なことを知り、尚且つ再利用できるあらゆる廃棄物で日本が覆われているにも関わらず、消費するために血眼になっている日本人の姿を知り著者は思考を深めている。「所有者の存在しない土地」の存在もここで初めて知った。
彼は決して無銭生活を礼賛しているわけではない。「考えなくなった日本人」に「ひとつのレイヤーにのっかっているだけじゃだめ」ってことを警告しているのだ。俺は以前読んだ「くらしのアナキズム」の究極の形をここでみさせてもらった。
面白い!彼の活動は注目に値すると思う。
<メモ>
・普通に考えよう。常識というものは、文句を言わないようにというおまじないである。まずは、そのおまじないから解放される必要がある、おまじないからの解放は。「考える」という抑制によって実現する。
・態度経済をつくりだすために「頭の中に都市をつくろう」
・情報には「服を着た情報」と「裸の情報」がある。人はついつい「服を着た情報」に流されやすい。(中略)「服を着た情報」は人に見られることを前提としたものなので「他者に迎合した情報」なのである。もちろん、それは見た目にはとても心地よく、いろんな人ともうまく付き合える力をもっているが、「社会をかえる」作用はない。
・社会を拡げる。「裸の情報」を自らの方法で解釈し、独自のレイヤーをつくり、それをもとに交易させる行為。この過程に、態度経済は潤滑油のように沁みわたる。
・「わかりあう」「やりたいことをさがす」なんてどうでもいい!そんなものは無視して「自分がやらなきゃ誰がやる?」と腹をきめることだ。
・自分の態度を決めるにはどうしたらいいか。まず、相談しない、自分の頭で考える。
・才能は「音色」を持っている。才能には上や下はない。どんな音をしているか、それに近いのではないか。自分がどんな楽器であるかは変えることができない。でも、技術は向上させることができる。
・死のうと思うこと。絶望すること、実はそれは力だ。ただ、それは何か行動を起こそうとする力ではない。自分が大きな眼になるような力である、つまり、行動でなく傍観、俯瞰の世界に入れる。芸術とデザインワークの間、自己実現と社会実現の間、そんな違いが一目瞭然に理解できる。
・河川敷に住む路上生活者に河川法は違反というラベルを張れるが、憲法の生存権の方が強いから、誰も追い出すことはできない。それは公的機関の人々にとって暗黙の了解なのだ
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