喪主の挨拶(想像)
本日は母のためにこのように皆さんお集まりくださいまして、ありがとうございました
母は〇〇年の生涯を閉じて、
本日旅立ちます
存命中は皆々様にお節介を焼いたり出しゃばったり、他人様の一大事ともなれば家を放ったらかしにして飛び出すという劇場型、
心よりお騒がせしました🙏
義理人情にあつい、そして涙っぽく泣いたり笑ったりの忙しい人生だったろうと思います。
何より人が好きで、どんな時にもいつのまにか皆さんの仲間になって騒ぐ、賑やかな人でした。
大勢の親族の中に嫁いできて48年、
一緒に暮らしてきた姑を見送った母は、こんなに落ち込むのか?と思うほどしばらくはボーッとしていました。
私の記憶では、祖母と母親は仲が良かったと思ってたのですが、色々と世間なみの嫁姑問題が起こってたらしいです。
妹にはよく愚痴こぼしてたそうで🙄💦
女系家族と見間違うほど、母親の周りは親族の女性が何人もいました。
祖母の娘はもちろん、隣の祖母の実家には曽祖母も姪達もいたのです。
だから私にとっては、何人もお姉さんやお母さんがわりになる人がいました。
そんな親族の元に嫁いで二年目に初孫の私が産まれても、母の腕には抱かれず、私を可愛がろうと待っていた姑や小姑達が交替で抱いてたという。
また自分で言うのもおかしいけど、可愛い顔をした赤ん坊だったので、取り合いでした😅
母の腕にいる時はお乳を飲むときだけ、それもいつまでも乳首を加えてウトウトとする私を、もうそろそろよかろう?と頰をつついて抱っこしてたというくらい、めちゃくちゃ可愛がられてた。と聞きます🙄
おかげで三歳の頃には、私の歯は虫歯だらけ💦
お菓子好きな私の口には、いっつも何らかのお菓子が入ってたと💦😩
昼間は働いていた母親だったので、私が三歳の頃には押入れの中に入って母親の寝巻きを引っ張って抱きしめてたらしく、周りの大人がやっぱり母ちゃんが恋しいんやね🥲😊と
同情し、そしてますます可愛がられてたらしい(苦笑)
私の下に二人妹がいますが、とにかく何人もの子守りがいるので、子ども達が学校に上がるまでは、隣家のお姉さん達の遊び相手になって、
母親が買い物に連れて行くより周りのおばちゃん達が仕事先(自営業をしていた叔母さん達)に連れてったりいったい誰が親なのか?
わからないくらいほどでした。
また祖母などは必ず「アンタ誰が一番好きね?」と平気で聞いてましたね。
もちろん母親と言えば良いのですが、そんな答えを求めてない祖母達の目がありましたねぇ💦
私らも4歳からは幼稚園や保育所に入って、それなりに母親が仕事に行くとき通園しましたが、、まぁ私らも大人に気を遣いながら暮らしていた覚えがあります。
母も仕事の傍ら、私ら三人の子の教育や躾、育てるのは必死で厳しくも芯がブレない親でした。
父親も結構わがままだったので苦労したと思いますが、辛抱を重ねて50年余の夫婦生活を過ごすことができました。
仕事を辞めて晩年の母は、地域のボランティアに勤しみ、地域のおばあちゃん役をかって出てました!
母親にこんな母性があったのか?と思うほど、地域のこども達の名前をよく覚えて、声掛けは人一倍してましたね
最近まで地域の高齢サロンでも皆さんのお世話をしていました、何でそんなにボランティアするの?と尋ねると
家では頑張って皆のために尽くしても誰も感謝しないし労いの言葉もないよ。
他人のお世話すると、
皆さん有難う!と
言ってくれるからね、楽しいやん?
そうなんです、母親はその言葉に救われるから、身体がきつくても辞めなかったんだと思います。
皆さん、今日までお世話になりました、有難うございました!
そして私も今、
母親に有難う!と言います。
お母さんの子どもでホントによかった!と🙏
と、愚息に読ませようと…私の生前葬の原稿を書いてます(笑)
#生前葬をしたい
#皆に感謝
#死んだらわからん
#終活
#再春ラプソディ