なぜ真空手なのか、既存の空手に何が足りないか
1.私は空手を10年やって(私の考える)空手の本質というものを言えるのだが、それは
健康かどうかか全て
という事である
したがって、健康であれば先人の型で遊ぶ程度でも良いのだが、
真に健康ではない(=狭い意味で不健康)となるケースが有る
2.まず、既存の空手の流派は狭い意味でほぼ全て原型性から外れている。(広い意味では(おかしくない限り)人間の行為は全て原型で有る)
流派を創始したかどうかとかいう事では無くて、人間生理的に原型かという事で有る
私は3年前にこれを発見し、これを示す人にまだ出逢わないが(もしいたら良いのだが) 空手そのものへの研究よりも生活手段性の先行という仕方ない事象と思える
空手に本人の生活手段性という意味が付与されるので有る
※既存の空手の問題点についてはコチラ
・指導者によって言うことがバラバラ
・後進の成長が指導者の収入にとって代わられる(指導者が後進から奪うシステム)
・まだまだ空手に全く興味の無い人も多い(少なくとも客観的である事によってそのものとしての価値が無ければ話にならない、というか客観性に欠くので何らかの価値がない)
・空手の分野から著名な思想家として認知されるようになった人は(あまり)いない
それらは決して究極の形では無い。
形の作者にエネルギーが持って行かれるので有る。
原理的にそうで有る。
したがって、
極意みたいなそれっぽい言葉の使用を(下の者が適当に言い出したにせよそうでないにせよ)許しておりかつ高額のお布施を請求する処は究極ではない(理由:高額のお布施)のに究極を謳っており人間認知に反し狭い意味で不健康で有る(真に健康ではない)
悪質ではないが詐欺である
80点くらいの値打ち(完成度)のものがこの無理解によって-20点-60点程度のものになる
他にもっとやった方が良いもの(75点以上)は他にいくらでも有る
エネルギーを盗られるだけで有る
私の発見した真空手では100点を狙っていきたい
船越義珍氏
たとえば彼の空手は決められた形をやるという事のように思える
人生の本質とは形の先行というよりも形と非形との統合で有り、これに反する
なぜ彼が形をやらなければいけなかったかというとそれが彼の生活手段だったからで有る
宮本知次氏
氏の空手は「いかに形をやるか」という事がテーマのように思える
上に同じ
真空手は形と機能との統合を達成したものである(直球)
なかなか良い
したがって空手を(部門とか何とか言って)宗教の私物にする者は99.99%分かっていない
アウト
(完)
お布施システム
なぜ真空手なのかというと空手の意味を考え従来の呼称から脱却したからである
空手はコンテンツに過ぎない
なぜなら宇宙もまたコンテンツだからである
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