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「32年の呪縛」#野球ショートショート小説

2010年7月30日。祖父の23回忌で、真一は鎌倉にある墓の前で手を合わせ心の中でつぶやいた。

「おじいちゃん。夏の甲子園は今年で92回大会だ。平成になっても日本は平和だよ。東海大相模は今年、甲子園に出場するよ。」
 
真一の祖父、哲弘は「高校野球は平和の象徴」が口癖だった。大の高校野球好きで、とりわけ、神奈川県の東海大相模高校の大ファンだった。豆腐屋を営んでいた哲弘がまだ現役だった1970年代、神奈川県高校野球界の勢力図を塗り替えたと評された原貢監督に心酔していた。
 
哲弘は原氏の「有言実行」の姿勢が気に入っていた。1969年夏、創部7年目で初めて神奈川を制した際の優勝インタビューで、『俺が神奈川を変えてやろうと思った』と語った原氏の威勢の良い発言を聞いてから、原氏とともに『相模』は哲弘の推しとなった。

原氏は翌70年の夏に全国制覇をするなど、1966年から76年までの10年間で春の選抜1度、夏の甲子園は6度、相模を甲子園に導いた。そんな中、親子鷹といわれ息子の辰徳氏を擁した74年から76年は、神奈川の高校野球人気が沸騰した時期で、また哲弘の高校野球熱がもっとも盛んな時であった。

哲弘は1987年7月31日に亡くなった。77歳だった。前日に行われた神奈川県大会決勝で相模が横浜商業に2対4で敗れた報を病床で知り息を引き取った。死の直前まで相模の甲子園出場を祈るほど「浅からぬ縁」だった。

当時まだ8才だった真一が覚えている祖父哲弘との思い出は、高校野球をともに見たことで、中でも相模の夏の予選敗退が決まるたびに祖父が気落ちした表情で発した「相模の低迷は味方から」という口癖が頭の隅にこびりついていた。
 
真一には、祖父のつぶやきの意味がわからなかったが、自分の興味がいつしか高校野球よりもプロ野球に注がれていたこともあり、あえて祖母や母に聞こうとはしなかった。

しかし、2001年、大学を卒業し新聞社に就職してスポーツ局の高校野球担当に配属されてからは、心境は変わっていった。高校野球予選の現場に赴き、監督や選手への取材を通じて記事を書く機会が増えるにつれ、幼き日に耳にした祖父の「つぶやき」が気になっていった。

「相模の低迷」。
真一は、この部分の意味は理解していた。実際、原貢監督が退任した翌年こそ相模は4年連続となる甲子園出場を果たしたものの初戦で敗退。1978年から祖父が亡くなるまでの9年間、東海大相模の神奈川県大会における戦績は準優勝2度、ベスト8が2度と、原貢氏が率いていた頃の輝きはたしかになくなっていた。

しかし、何度考えても『味方から』の意味が分からなかった。

東海大相模の過去の戦績を調べても自軍のエラーで敗戦を決した試合は見当たらなかった。職場の先輩記者に尋ねたことも1度や2度ではなかった。

しかし、要領を得る仮説に遭遇することは1度としてなかった。真一は高校野球を担当してからの8年間、記事を執筆するたびに祖父との思い出を振り返るようになっていたが、都度、同じ個所でつまずき謎は解けないままでいた。その時すでに、東海大相模は32年、夏の甲子園から遠ざかっていた。
 
真一の担当が、高校野球専属からアマチュア野球全般にまで広がった2010年5月、向かいの席から上司と後輩記者、坂口の会話が聞こえた。

「坂口、大学野球の取材に行ってくれないか。東北エリアを担当してくれ。はじめは石巻専修大学だ。昨年、全日本大学野球選手権に出場している。力をつけているらしい。監督の見形さんにはアポ取っているから。」
「分かりました。専修大学の石巻の方ですね。」

「ミカタ?」真一はハッとした。すかさず坂口の席に歩み寄り、上司が坂口に渡した取材の構成書類を見せてもらった。取材対象者は「見形仁一監督」。プロフィールを見ると2004年から監督として石巻専修大学の指揮を執っていると記されていた。

さらに出身校欄を見ると専修大学、宇都宮学園(現、文星芸大付)とあった。そして、個人のエピソード欄には、1977年夏の甲子園で宇都宮学園のエースとして東海大相模を10-0で倒したこと、4番打者として満塁本塁打を放ったことまで詳しく付記されていた。

真一はそれを読んだとき、ひらめいた。祖父が口にしていた「味方」の意味は「見形」、つまり人名だったのではないかと。

真一は、宇都宮学園対東海大相模の試合を祖父の膝の上でテレビ観戦をした記憶はあったが、試合内容に関しては覚えてはいなかった。就職してスポーツ局に配属されてから、東海大相模の戦績を調べる中で当該試合の結果こそ把握していたが、まさか祖父のつぶやきの元になった試合とは思いもしなかった。
 
祖父は相模が甲子園に出場できなくなったことを、宇都宮学園との試合の完敗が尾をひいていると思っていたのだ。
 
「坂口くん!俺も同行させてくれ。さあ、出かけよう。」
真一は坂口の意思を確認せぬまま、先に部屋を出て地下の駐車場まで小走りで走った。坂口は真一の意図を理解せぬまま訝し気に後を追った。
 
その夜、見形氏への同行取材を終えた真一は、宿泊先のホテルでしみじみ祖父のことを思った。

「じいちゃん、見形さんは自身が相模のその後の低迷の要因になったなんて一切考えていなかったよ。」

「僕たちスポーツ関係者の一般的な見立てでは、相模が夏の甲子園に32年も出場できなかったのは、横浜高校や横浜商の台頭で神奈川県が戦国時代に突入したことが原因とされているんだよ。」

「横浜高校には愛甲猛さんや松坂大輔さんらが出てきて全国制覇をしたし、横浜商業にはジャンボ宮城さん、三浦将明さんがいた。」

「桐蔭学園には後に巨人の主力打者となった高橋由伸さんがいた。相模は毎年、惜しいところで負けたんだ。おじいちゃんが亡くなった後、春の選抜は3度出場したんだけど、夏は難しかったんだよ。」

真一は積年の謎に終止符を打とうと、哲弘に対して矢継ぎ早につぶやいた。
 
そして、2010年7月30日。真一は哲弘の23回忌で祖父の墓前に手を合わせた後、取材先へと向かった。

「東海大相模は今年、甲子園に出場するよ。ようやくだ。33年ぶりだよ。じゃあ甲子園に行ってくるね」

その年、東海大相模は主戦投手一二三(ひふみ)慎太の好投と強力打線で快進撃を見せた。初戦で水城(茨城)を10対5で破り、3回戦は土岐商(岐阜)を3対0で完封。準々決勝は九州学院(熊本)を10対3で圧倒し、準決勝も成田(千葉)を10対7で退け決勝へ駒を進めた。

決勝戦は春夏連覇を狙う興南(沖縄)と対戦したが、3連投の一二三は疲労を隠せず、強力興南打線に捕まった。3回まで無失点で抑えていたものの、4回に長短7安打を喫し守りのミスも絡んで一挙7点を先制された。その後、六回にも集中打を浴び5失点で降板。打線は、相手エース島袋洋奨の前に1点を返すのが精いっぱいだった。試合は1対13の完敗。東海大相模は準優勝に終わった。

真一は大会を通じて甲子園で精力的に取材をした。祖父の大好きだった東海大相模の快進撃を見ることができて感慨深かった。
 
この夏、各メディアは33年ぶりの出場にして準優勝という相模の結果に「呪縛からの解放」と評し、門馬監督以下選手を讃えた。「呪縛からの解放」・・はじめにこの見出しを付けたのは、ほかならぬ真一だった。

そしてそれはまた、祖父が遺言の如くささやき続けた「ミカタによって・・」とする「呪い」から真一が解き放たれた瞬間でもあった。

真一は大会終了後、9年務めた新聞社を離れフリーの記者として活動することを決めた。「高校野球に特化して取材をしたい」そんな思いが真一の背中を押したのだった。

5年後の2015年夏、真一は東海大相模の全国制覇を取材することになる。

その年の相模は、小笠原慎之介と吉田凌の投の二枚看板と2010年準優勝時とそん色のない強力打線で栄光を勝ち取った。特に、決勝の仙台育英との試合は8回まで6対6の展開で満員の観衆を釘付けにする好ゲームとなった。9回に、エース小笠原が本塁打を放ち後続も続いて4点を取り試合を決めた。
祖父が目にした1970年以来、2度目の真紅の大優勝旗が東海大相模に渡ったのだ。

真一はアルプススタンドから歓喜の瞬間を見つめた。取材メモを足元に落としたことに気付かないくらい、マウンドで抱き合う東海大相模の選手の輪に視線を注いでいた。

そして、その中になぜか、祖父、哲弘の姿を見た。

「お前もグラウンドに入ってこい」真一の耳にはそう聞こえた。

「まさか・・」真一は首を左右に数回振り、現実に戻ろうとした。その数分後、ようやく足元の取材メモに気が付いた。

メモには「おじいちゃん、相模を勝たせて!」とあった。真一はそれを見てようやく正気に戻り当該個所をペンで消した。

「東海大相模45年ぶり頂点、小笠原V弾&完投」と冷静に書き直し取材の準備を始めた。(完)

*この物語は事実を元にしたフィクションです。

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