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《坂木甚句》~天領の里の粋な甚句(長野県埴科郡坂城町)

埴科郡坂城町は、長野県東部、上田市の西側に位置します。町内には千曲川が流れ、古くから工業の町として発展しました。戦国期には二度にわたって甲斐の武田信玄を打ち破った名将、村上義清の出生の地、また居城の葛尾城跡も残されています。この地の花街で歌われた民謡に《坂木甚句》があります。


唄の背景

北国街道坂木宿から坂木遊郭へ
江戸時代には北国街道の宿駅としての坂木宿は、中山道追分宿(長野県北佐久郡軽井沢町)から越後出雲崎(新潟県長岡市出雲崎)へ続く北国街道の宿場として、慶長8年(1630)に指定され、本陣、脇本陣、問屋が置かれました。また、かつては100軒を越える旅籠屋があったといい、大変賑わった場所だったそうです。

旧坂木宿立町付近

その後、幕府の天領となりましたが、飯売女を抱えることができる旅籠が認められたといい、北国街道沿いでは、権堂(長野市)とともに早い時期から飯盛旅籠が置かれたのだそうです。
代官により、旅籠屋1軒につき、飯売女2名以内を置くこと、飯売女と遊女を区別し、遊女屋が営まれていたそうです。 
このように坂木宿の旅籠屋は、北国街道沿線の宿場の中でも盛況でしたが、明治期に至り、飯売女も自由な立場になれる中で、遊郭設置の動きが起こり、明治16年(1883)から坂木遊郭の営業が開始されました。坂木遊郭の芸妓は厳しい修行を重ね、芸達者ということで定評があったといい、長唄や端唄、座付物などの芸を身につけ、試験を受けて一本立ちしていったのだそうです。

花街で大流行した二上り甚句が坂木宿へ
この《坂木甚句》の源流は、幕末の頃に全国の花街で大流行した「二上り甚句」です。これは、文字通り二上り調子の三味線伴奏によるもので、賑やかで人気のある楽曲の1つでした。そのため、全国に広まると、各地に根付き、その土地ならではの歌詞も作られるなどしながら、民謡化していきます。
信州では、中山道塩名田宿の《塩名田甚句》(長野県佐久市浅科)、松代の《端唄甚句》(長野県長野市)などの例があります。三味線伴奏もほぼ似た音型の手が用いられています。
《坂木甚句》は、早間の三味線に太鼓を入れた軽快な伴奏に乗って、お座敷唄らしい華やかな雰囲気をもっています。
盛んに歌われた《坂木甚句》も戦後、廃れていきます。しかし、復興に尽力されたのは、京染物の玉屋主人の関鶴吉でした。
明治39年(1906)生まれの関鶴吉は、郷土史や芸事に造詣の深い人物でした。この唄を覚えている人から旋律を習います。また、三味線は戸倉上山田温泉の花街に出ていた中村トキエに弾かせ、復活しました。
《坂木甚句》の詞型は、文字通り甚句系の7775調からなります。

 (キタサッサー ヨイサッサー)
〽︎ハァー坂木よいとこ(ヨーヨー)
 御天領育ち(サッサーイ)
 昔ゃお品で 長羽織
 (キタサッサー ヨイサッサー)

冒頭の「ハァー」は長く伸ばされますが、以前は短く歌っていたものを関鶴喜によって自由奔放に長めになったようです。
素唄も五文字冠りも、各地で歌われているものと共通なものや、新作のものなどが残されています。坂城の様子がよく分かるようなものがたくさん作られてきたことがわかります。
現在では、ほとんど歌われることもなくなってしまいましたが、坂城らしい民謡ですので、広く歌われることを期待したいです。


音楽的特徴

拍子
2拍子系

音組織/音域
民謡音階/1オクターブと4度

坂木甚句の音域:1オクターブと4度

歌詞の構造 
前述のとおり、7775調を基本とした甚句調で、冒頭に「ハァー」が入ります。

 (キタサッサー ヨイサッサー)
〽︎ハァー坂木よいとこ(ヨーヨー)
 御天領育ち(サッサーイ)
 昔ゃお品で 長羽織
 (キタサッサー ヨイサッサー)

また、5+7775調の五文字冠りも残っています。

 (キタサッサー ヨイサッサー)
〽︎ハァー遊郭の
 梯子段をば ストトントンと(サッサーイ)
 あがる心地で 暮らしたい
 (キタサッサー ヨイサッサー)

演奏形態

三味線
太鼓
唄バヤシ

下記には《坂木甚句》の楽譜を掲載しました。

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