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《親沢追分》~山村に残された追分宿直伝の追分節(長野県南佐久郡小海町)
民謡の王様と呼ばれる北海道民謡《江差追分》の源流は、信州の中山道と北国街道の分岐点である追分宿(北佐久郡軽井沢町追分)で唄われた「追分節」であるといいます。博労達が歌った「馬方節」に三下りの三味線伴奏が付いた「追分節」は全国各地に伝わっていきます。各地で根付いた「追分節」は土地土地によるアレンジがされていきますが、南佐久郡小海町の親沢に伝わった「追分節」は、追分宿から身請けされた飯盛女によって伝えられたお座敷唄で、大変貴重なものです。
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唄の背景
親沢の里
南佐久郡小海町はかつての佐久甲州往還街道沿いに位置します。親沢へは南北相木村へ向かう相木街道を上っていくのが主要な道であったようです。親沢は茂来山(旧名貰井山1717m)の裾野、登山口もあります。その斜面に寄り添うように集落が形成されています。
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親沢では「諏方大明神」の春祭りで人形による式三番、川平の鹿舞(三匹シシ舞)が演じられることで知られています。川平は親沢から親沢川沿いにさらに奥に入った集落で川沿いに集落が続いています。この《親沢追分》は親沢や川平の人々によって歌い、踊られてきました。
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追分宿名物の追分節が親沢へ
「追分節」研究はいくつかあります。特に、佐久郡下に伝わっている《親沢追分》について、詳しく解説されているものに以下の書籍があります。
竹内 勉 「追分節—信濃から江差まで」1980年
「民謡地図③ 追分と宿場・港の女たち」2003年
小宮山 利三「軽井沢三宿の生んだ追分節考」1985年
追分宿は浅間根越の三宿(軽井沢宿、沓掛宿、追分宿)の中でもっとも賑わった宿で、江戸期には旅籠71軒、茶屋18軒、商店28軒を数えたそうです。各旅籠には飯盛女も置かれ、追分宿で200人以上いたといいます。飯盛女とは飯売女、宿場女郎ともいわれ、もとは文字通り、旅客に飯を売ったり、給仕したりしましたが、やがて芸を披露したり、私娼として働いていたりするようになったようです。追分宿のお座敷では、近隣の馬方節・馬子唄が歌われ、やがてあしらい程度の三味線の伴奏をつけて歌われるようになったといい、本調子であったり、三下りであったりしたようです。中でも三下りによるものが、粋に聞こえ、「馬方節」に三下りの調子がつけられたということで「馬方三下り」と呼ばれるようになり、やがて、追分宿名物の「追分節」として流行ったようです。
しかし、追分宿で唄われてきた「追分節」のメロディというのは、これ1曲というものではなかったようで、上記の研究書をみると、例えば、小宮山は「馬子唄調系追分節」と「座敷唄調系追分節」に分類されています。さらに、小宮山の分類をもとに、現在でも耳にすることができる節回しを中心に分類してみました。詳しくは《信濃追分》のページに記述しました。
追分宿の追分節が親沢に直伝
民謡の多くは、元の唄を聴いた人々がアレンジを加えて土地に根差したものにしていくことが多いですが、《親沢追分》については中山道追分宿とのつながりがはっきりしているといえます。保存会を組織し、復興に尽力した川平の新津勘弥(明治7年(1874)~昭和36年(1961))の調査によれば、天保年間(1831-1845)に、親沢の人により追分宿の飯盛女が身請けされ、「追分節」を伝えた女性が2人いたそうです。
1人目は、みき(生没年不明)で、追分宿油屋の飯盛女でした。本名をはなといい、井出大助(文化11年(1814)~元治元年(1864))により、天保13年(1842)に身請されたそうです。
2人目は、くに(文政6年(1823)~明治12年(1879))で、追分宿永楽屋の飯盛女でした。本名をはるといい、井出義三郎(文化10年(1813)~明治38年(1905))により、天保13年(1842)に身請されたそうです。
みき、くにともに追分宿で「追分節」が歌われていた頃に磨きが掛けられた飯盛女でしたので、追分宿仕込みの「追分節」を親沢の人々に教えたということです。
洗練された追分節
《親沢追分》の踊りは、座布団1枚の上で足を外に出さないのが上手であるとされたそうです。踊りには片手に小皿を2枚重ねて持ち、四つ竹のように両手で4枚を賑やかに打ちながら踊ったといいます。
伴奏は三味線、鳴物には樽太鼓、鉦を使いました。また即興的に皿や小鉢を叩いたり、お膳やまな板に2つの碗を伏せて馬の蹄を真似たりしたといいます。こうした雰囲気は、いかにもお座敷ならではの賑やかで楽しい雰囲気であったようです。樽については、写真を見ると現行の《八木節》のような縦ではなく、横に置いて演奏していました。
なお、三味線が大変技巧的です。現在聴くことができる岩村田調、追分宿調の《信濃追分》の三味線はどちらかといえばしっとりとした雰囲気ですが、《親沢追分》はテンポが速めで、三味線の前奏や間奏は高い勘所を押さえたり、スクイやハジキを多用したりする大変難しい伴奏です。身請けされた飯盛女が伝えたとすれば、本来追分宿で弾かれていた三味線もこんな感じだったのかなというイメージが湧きます。
なお、親沢には追分宿の本調子三味線の《追分節》が伝わったといった趣旨の解説があります。現在の《親沢追分》は三下りですが、かつて本調子であったかどうかは現在では分かりません。いわゆる《信濃追分》「馬方三下り」となって伝播したと考えられますし、現行では三下りです。親沢に本調子で伝わって、やがてみきやくにが三下りにしたとは考えにくいと思います。従いまして、この点については疑問が残ります。
親沢追分の復興
初代保存会長の新津勘弥は昭和4年(1929)にビクターレコードに《親沢追分》を吹き込んでいます(唄:新津勘弥、三絃:新津直平、新津達三)。ただし、この時の曲名は《親沢追分》ではなく《信州追分》でした。おそらく、岩村田芸妓による《信濃追分》が4年前の大正14年(1925)に録音されていますので、「親沢」という地名ではなく「信州」を被せたのかもしれません。
また新津勘弥の唄は昭和10年(1935)にNHK長野放送局から電波に乗ったそうです。この時の新作の歌詞に、
〽︎親沢追分 ラジオにのせて
広く世間に 広めたい
というものがあります。親沢の人々の《親沢追分》に寄せる思いがよく表れた歌詞だと思います。
しかし、その後保存会も立ち消えとなり、新津勘弥も昭和36年(1961)に他界し、お連れ合いの新津久仁代が伝承を続けます。民謡研究の竹内勉氏が親沢を訪ねたのが昭和40年(1965)で、その時に久仁代夫人の唄を録音したものが、やがて町田佳聲・竹内勉監修の「民謡源流考 江差追分と佐渡おけさ」Vol.2に《親沢三下り》(唄:新津久仁代、囃子:井上とし江、三味線:井出久一、樽:井上実)としてレコード化されています。
その後、昭和40年(1965)に、新津市雄が新たに保存会長となり保存会を再起させ、揃いの衣装を仕立てたり、民謡歌手によるレコーディングを進めたりしました。なお、ビクターレコードによるEPレコード、A面が《望月小唄》でB面に、安来節の名人でビクターレコードの松江徹の演唱による《親沢追分》で、新しい踊りの振付も掲載されています。
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プロの民謡歌手によるものは、この松江徹盤くらいですが、さらに洗練された雰囲気の演唱となっています。三味線は津軽三味線の高橋祐次郎、高橋巌でしたが、地元の手付けとは異なり、拍子もほぼ2拍子系にアレンジされています。
音楽的特徴
拍子
複合拍子
※採譜にあたり、西洋音楽的な拍子としては、手拍子に合うような2拍子系ではなく、付加的に半間(1拍)余るように感じたり、聴きようでは5/4拍子にも聞こえたりします。本LABOでは実験的に3/4拍子と2/4拍子が入り混じるような表記になっています。これが完全なものとは思えませんが、現段階での成果としたいと思います。
音組織/音域
民謡音階/1オクターブと3度
※第1句目のみ下記の音組織上のⅮ音が出現します。転調と考えるかは今後の課題とします。
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歌詞の構造
7775調の甚句形式。各唄のあとには長バヤシが必ずつけられます。
〽︎親沢出てみりゃ
(ア)ーエ八ヶのエ
エー峰にヨー
(ハァキタショイ)
雪が
(ア―)エあるせいかエ
エー肌寒い
[後バヤシ]
アー来たよで戸が鳴る
出てみりゃ風だに
オーサヨイヨイ
※第2句目の語頭に第1句目の最後の文字で息継ぎをして、その産字を伸ばして「エ」を添え、息継ぎの前には「エ」を添えます。後半の3文字には「エー」を入れ、最後は「ヨー」を添えます。
※第3句目は3文字を歌って息継ぎ、次の4文字の入りに産字を伸ばして「エ」を添え、後半の3文字の終わりに「エ」を添えます。
※第4句目も第2句目と同様に「エー」が入ります。
※長バヤシは長短ありますが、最後は「オーサヨイヨイ」を付けます。
演奏形態
歌
ハヤシ詞
三味線
鳴物
・樽太鼓
※古い録音では鉦が入っています。お座敷での実際では上記の通り、小皿などを叩きました。
※レコード調では尺八入りの演奏です。
下記には《親沢追分》の楽譜を掲載しました。
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