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ノベル『サマービバーク』

 「今年の夏は北アルプスの縦走をやるよ。アルプス表銀座を制覇するわけだね」
 理科大二部生の橋田は宣言する。昨年の行き当たりばったりで遭難しかけた山行を何としても払拭するんだと力むかのように。
 「縦走って?」
 「ほら台所や浴槽をきれいにできる自然洗剤だよ。飲んで元気にもなるらしいけど」
 「違うよ。文夫くん」
 「半田野はわかっているのに自分じゃユーモアだと思って言う」
 「縦走にならざるを得ないんだよ。連泊登山だからね。標高三千m級の山々を登るんだ。いちいち下山して山頂に目指すなんてアホな事しなくていいわけ」
 「そうなの。回り道遠回りしなくていいの?抜け道のズルしなくていいわけ?」
 「登山はそんな人間界の下世話の雑事なんか関係ないんだよ」
 「確かに青春真っ只中なんだね。真夏の山登り・・かわい子ちゃん・・」
 「エロよりも男のロマンが山なんだよ。大自然に我が身を投げ打つんだよ」
 「なんか面倒くさそうだな」
 「そんなことはないよ。感動しかないんだよ。エロもセックスも完全に超越した絶対的領域が山にあるんだよ」
 「そうなの?」
 「あのさぁ北アルプスなんだけど」
 橋田は手書きの小冊子を作成していた。さすが理数系なかんずく物理が大好き。将来は物理学の研究者になりたい。こまかなしかも精緻な筆致は橋田の脳髄の見取り図のように優位に輝く。文字と人間の相関は明白だ。
 五月の連休開け。せっかくのゴールデンウイークを無為に過ごした連中の足掻きも軽やか。週末結局何もできず週明け月曜の酒場に繰り出す一般リーマンのような未練がましさ。それでも若さの愚かさ。昨年より今年こそ。二回目が正念場土壇場修羅場なのだ。まだ彼らには濡場は早かった。
 学生街の外れの鶴巻町、カフェでも居酒屋でもないリーダー橋田の自室に集う。部屋には電話がない。アパートの入口脇にピンク色の公衆電話があるだけだ。電話台を見下ろす新聞受け。たまに朝日新聞が抜かれる。
 「とるなドロボー」
 極太油性マジックが走り書きされた紙片がぶっきらぼうに引きちぎったガムテープで貼られたりもする。
 スマホもない。テレビもない。電話の権利と運転免許証取得の合宿の費用は丸井の主要二本立てだ。
 自室のエロ事情。エロ本がやっと。ビデオレコーダーもない。そんな連中たちが集うピンク映画館が早稲田大学正門通りと江戸川橋通りの交差する場所にある。
   牛込文化会館
 橋田も半田野も秋川もこっそり通った。ポルノ映画館ながら文化会館と言うからにはそれ相応の映像が上映されると思うのだが。ぴあを確認しても上映二本立ての全てがエロオンリーしかも日活ロマンポルノばかり。半額割引券をばら撒く。
 小汚い狭隘の劇場内のスクリーンに映る春を鬻ぐ発色くすんだ陰気なエロスばかりが彼らの魅せられ引き寄せられる要因ではなかった。劇場の受付カウンターには時々早稲田の女子大生が半券もぎ取りのアルバイトをしている。清純な雰囲気。黒髪ロングの流麗痩身。急な胸元はナイス。最初に半田野文夫が一目惚れ。なんと同じ文芸サークルの後輩の一文ガールである。
 彼女は大学の女子学生専用マンションに住んでいた。今年四月に入学した新入生だ。高校時代から小説を書いている。日記も書く。将来は出版社か新聞社か放送局かいずれにしてもマスメディアに就職したい。国立大学にも合格したのだが早稲田の大学の文学部に入学した。出身は中国地方の瀬戸内海沿岸の地方都市である。自宅は景勝地に近い。幼い頃から家族で旅行した。
 
 四畳半の座卓を囲んでこの夏山を目指す学生たちが結集する。
二回目がやはり楽しい。前回の反省を通じた成長を試したい。初回から次回へリベンジを期する。そんな青春の夏にふさわしい意気込みがみなぎる。山岳部でもワンゲルでもない早稲田鶴巻町のアパートに集う学生パーティだ。山びとクラブ。
 「一応小冊子を作ってみたんだ。ざっくり山行の日程とどんな場所なのか調べてみたんだけど」
 「文夫くん、テント買わないといけなくないか?」
 「うん。すぐ登山と関連の用具を買うよ」
 「シュラフもそうだけどザックもしかりだけど、やはり四人用のテントが欲しいよね」
 「確かに今回の北アルプスいわゆる表銀座縦走コースは夏山のメッカなんだよね。我らが早大生の半田野くんが我らパーティ用のテントを買うという流れができつつあるわけで」
 「今すぐ買うよ。山以外にもいろいろ楽しめる。テントがあればどこでも行って泊まれる。ガールとの性交もできちゃう」
 「凄いな。そのテント。まるで愛欲の布切れかよ。性欲の勃起漲る下腹部テントかよ。アレやったあとにさぁ水蒸気でテントの中は水滴だらけだよ。ガールの愛液も混じるミラクルワールドだよね」
 「そうなるな。愛のテント!」
 「初めてのテントの朝、激しき情交の証が残るわけだね」
 「達太。お前もさぁ念願の大学に通えるようになったわけだし弾けたいんじゃないのか?やりまくりたいんじゃないのか!」
 「そうかもしれない。やりまくりの夏だな。バイトして資金を貯めないと」
 「下落合のガクトに行ってみれば?」
 「学徒援護会か。先輩の話だと貧困学生たちの難民キャンプみたいらしいけど」
 「そうだね。登録すれば募集するのにいちいち履歴書とか用意しなくていいんだよな。確かに短期バイトの募集が多いいけど。その分日払いで即金だよ」
 「なんだぁ。ソッチンじゃないくて。バコバコアヒアヒやらんとあかんやろ」
 「せや。ズコズコバコバコやらなあかん」
 「でぇや?わいのちんぽごつうええよぉ」
 「そうでっか。ってアホかい。登山の資金は各々調達してくれ。今回の山行はさぁ槍ヶ岳がメインなんだ。まず中房温泉までバスで行くんだけどあずさじゃなくてアルプス号の急行で行くんだよね。大学の講義が休講だととりあえず一コマ空くわけでしょ。時間潰し大変だったりするけどさ。松本駅からバスが出る。穂高に行くには上高地からだと電鉄で新島々まで乗ってバスか相乗りタクシーだけど。マイカー規制あるからね。さすが長野県だよ。最初に大天井岳に登る。ここの山小屋凄くいいんだ。女の子と一緒に登ったら一緒のベッドでいろいろできちゃう。まぁあんまりおすすめできない。公衆の面前ならぬ脇前という感じかな。勘違いしやすいんだけど山の上はレジャーじゃないんだよ。観光ホテルでもないんだよな。天ぷらが名物で有名な作家達が原稿もって缶詰になるあのホテルじゃないんだ。山はそりゃものすごくストイックさ。愛を育んでもいいけどプラトニックで行かなきゃ。精神の耐久だよ。我慢したあげくの愛なんだよ。それに非常事態でもある非日常の一等やばい山岳シリアスな事態なんだ。そこからいや間違えた燕岳だった。燕岳から目指せ大天井岳さ。入れ替えしてね。ちょっとした間違いさ。誰にでもあるケアレスケアレス。稜線を歩くんだ。時間的には昼下がりかな。夕刻早めにその日の目的地に着く感じの時間感覚ね。たぶん雲上体験ができるはずだ。高度感やら興奮やらが溢れ出るんだよ。自己を相対化しつつ絶対化の領域に突入するんだよ。唯一の存在証明を自分自身で敢行するのが山登りの醍醐味さ。荘厳な知られざる己との再会だよ。凄くない?」
 「凄いなぁ。橋田くんは凄いよ」
 「腹減らない?」
 「いつもぺこぺこさ。銭湯代も節約しながらフランスパン齧ったり」
 「そうなの。自炊やってるの。凄いな」
 「自炊楽しいよ。自分でシコシコ仕込んだりさ。女の子だって気持ちよくなりたいんだよ。自分で慰めたり。自分でこさえたり。ご飯炊いてネギやにんじんを切り刻む。鍋にはたっぷり水を入れて炊くんだよ。沸騰したらいろんなもの投入してさ。グツグツ煮込むんだよ」
 「うちのアパートは共同の台所だからとなりで髪洗ってるのいたり。酔っ払って小便したりするアホもいる」
 「気をつけないといけないな。夏休みになるとこのアパートはまさに恋人達の愛の巣だよ。彼女気取りの女子学生たちが押しかけて即席の同棲だよ。夜半過ぎ未明にはそりゃもう激しき喘ぎ声ややんごとなき振動の継続とかね。地震とも違う。余震なんかあるもんか。いきなり激震の本震さ。人間の一等デリケートな部位同士が重なり合って包含包摂のしかも乱れ打ちのバイブレーションね。まぁ愛憎益々増幅あっぱれな揺れがアパートの内部構造に由々しくも伝導される。木造アパートはしょうがないよな。セックス禁止なんてできっこないよ。石油ストーブ禁止はありふれてるけど連れ込みの不純性行為を禁止する規約はない。上の階は政経や商学部の将来有望な連中が住んでるからね。ギャルもそんな玉の輿どころじゃないかも知れんが」
「朝、一階の通路に寝ぼけた下着姿の女がいたな。路上で酔い潰れてる女みたいだった。毎回ラブホじゃ学生らしくない。早稲田はそんなにお家が裕福じゃないの多いし。悲しいかな金のない学生達はみな自分の部屋で安上がりに性交するわけだね。エアコンもない扇風機がやかましい閉め切った四畳半に重なり合って汗ばんで咥え合って。それでさぁメインの槍に向かうわけだけど」
「かなりの耐久が必要だよ」
「多分誰か一人二人、高山病に罹るわけだね。前日の新宿発の夜行急行列車はオーバーナイトだからね。しかも睡眠不足でありながら山を登る。いきなり高度三千近くまで登るわけで。大天井岳の山頂、テントの中で猛烈な体調不良になっちゃう。しかも年順で行ってもこの俺がリーダーになってしまうわけだね」
 「おんぶして下山しかないよ」
 「ところが奇跡的な回復が待ってる。まさに僥倖だよ。天皇陛下も人間宣言されてから全国行幸された。ポツダム宣言を受諾と言っても全国各地に投下された未曾有の焼夷弾の雨霰による日本人大虐殺と開発から実地使用された原爆二発が戦争終結の決め手じゃぁないんだね。日ソ不可侵条約を侵したソビエトの参戦によって最後の一縷を断たれた。しかも共産主義に占領統治されると皇国を守れない。共産党一党独裁には王制は認められない。だから・・。さて槍ガ岳を目指すわけだけど今日の道程がそりゃもう延々とパースペクティブに見渡せる素晴らしき眺望なんだよ。さすが大天井!ブラボーブラボー」
 「橋田くんまるで何回も登ったみたいな話だね」
 「アルピニズムってもんは想像力の極北でも極致でもあるわけだね。ヤマケイ読んだり過去の登山記録を紐解いてみたり。シュミレーションそのものを自分の脳髄でやるんだ。理系学生の宿命は実験実習だけど。実験中は全身全霊のクライミングになるんだってとこを今一度思い返すんだよ」
 「実験やったことないけど凄そうだね。でも白衣姿で大学構内を闊歩するのは不気味だよ」
 「違うね。白衣こそ無窮の色彩めいた意匠なんだ。軽佻浮薄のカジュアルな装いはアカデミックの埒外ならまだしもさ大学構内それ自体がシュミレートされて山岳にもなり得る。なんと言っても人間の中に大自然が厳然と存在するわけだし大学の中においては自分すらが内蔵内包され得るんだよ。だから数理に長けた研究者の多くが霊峰目指して学問研究に匹敵する自己投入を図るんだ。登山中も研究中も同レベルの知的時空ですらあるんだ。着想や推論検討なんかの思考中は登山状態そのものなんだ。シュミレーションとイマジネーションはたまた・・」
 「確かに大天井岳から槍ガ岳までかなりの難所しかも高度差もあるね。みなまた乗越?」
 「みなまたじゃなくてみずまたと読むんだ。どこかの誰かさんみたいに牛込文化会館のチケットもぎガールと性交しながら他にもキャンパスで複数関係を維持するような二股三股の姦淫もあるわけだけど」
 「お前あの子とやったのか?」
 「牛込文化ってあそこら辺は致命的にも会館の名称的にも間違いだよ。それと早稲田通りの変態的な曲りがどうにも解せないけど」
 「複数のガールと姦淫って。このみずまた乗越っていうのも峠だのコルだの言うらしいけど。登山登攀のプロセスってクライマーの精神も体力も同時に奪い去る地獄の特訓そのものだよ。登りながら自問自答の責苦を自らが背負い込む。その刹那に後悔先立たずの山に登りながら船出まで航海航行しつつの矛盾までやって来るわけだね」
 「あんなエロなガールを乗越って正常位ですらなかった変態野郎。このドン百姓!」
 「向こうからいきなり開脚しちゃった。飛び越えんだね。コルでも峠でもないわけ。乗越ですら当然ないわけ」
 「まさか処女でもヴァージンでもなかったわけないよな?」
 「まず整理しないといけないのは恋愛関係は当然、肉体関係であって不純だろうが清純だろうが性器結合の儀礼的なセレモニーのファクトがファックされるんだよ」
 「お前凄いな。ファックのファクトがあったんだな」
 「逝くってことが彼女にとって一番大切なんだよ」
 「お前も逝ったの?」
 「それって男と女のミステリーだよな。女のオーガスムと男のそれは全然違うわけ。射精イコール出ちゃった出しちゃったの状況と女の性的快楽の極致は緊張から弛緩になって変性意識に満たされて痙攣したり口から泡吹いたりふくらはぎがコムロガエシになっちゃったり」
 「もういいだろう。入山前に登山計画を投函する時に拡声器で登山客に訴えてるおじさんがいるわけね。『もう雨が全然降ってません。今降っても焼石に水です。どうか水の準備は抜かりなくお願いします』なんて言うわけ。もう縦走真っ只中なんだよね。下山もできなきゃ水場もないわけ。水が足りなくなって小屋に行くんだよね。そこがなんと殺生ヒュッテだな。殺生って凄いよね。あんな異常な高所で殺生・・。ギャグでもジョークでもないって言うか。雨全然なんだよ。雨が降ってない。そりゃ梅雨明けしたけど完全に干上がってしまったんだよ。小屋の方もやむなくリッター制限するんだね。殺生ないわけ。水分不足に陥ったときの絶望たるや。一リットルじゃないんだ。その半分だよ。一人五百ミリリットルなんだよ」
 「なんかやばくないか?」
 「それでも我が憧憬の槍岳に向かうこの僕たちなんだけど。途中ではげしき便意もあるわけ。トイレも便所もないの。どこで用を足すわけ?草むらもない。そりゃそうさ森林限界とっくに超えてる。岩場の陰でズボンもパンツも下ろす。みょうにスースーしたりしてね。それでも生理整頓だろ。意外に硬質の便が出ちゃう。妙な解放感もあるかもしれないけどそんなもんはさぁ。ガールだって登ってるんだよね。真夏の北アルプスだよ。全国の大学の山岳部やワンダーフォエーゲルの連中が殺到してるんだよ。ほらぁ「二十歳の原点」の高野悦子みたいな美麗なガールがやってきたらどうする?君の隣に並んでさぁ美尻を晒してすました顔つきで踏ん張るかも知れないよ。凄いよなぁ。堪らんよなぁ。新幹線の車内トイレって鍵がかかっていたはずがかかってなくてお尻丸ごと見られた俳優の失敗談なんかほんとクソだけどさぁ。魅惑のワンゲル所属の女子部員が山に登る。出発前日、アパートの自室に泊まらせてあげたワンゲル男に無理やり性交なんてこともなきにしもだよ。高野悦子は赤裸々に書いてる。日記にレイプされたことをさ。あれは三部作の二巻目だったかな。三冊あるからね「原点」シリーズはね。さてこと終えて立ち上がるじゃない。でも被せたはずの気休めのティッシュが風に靡いてそれでも便の粘液めいた粘着効果が予想外に強かったおかげで事なきを得ずなんだけど。もう殺生ヒュッテで買った水は全て飲み干しちゃってる。やばい。これは本当にやばいんだよ。もう走れメロスなんだね。信義を背負った水汲み走者が出発するんだ」
 「誰がその重大任務をやるんだい?」
 「そりゃ君だよ」
 「そうなの」
 「空身の使者が早足で向かうんだよ。我々の命の水をゲットするんだよ。タイムリミットが間近だよ。もう補水しないとやばいわけ。ザックを転がしてその傍にしゃがみ込んでるわけね。他の三人はへたりこんじゃってる。大学入試の合格発表を見に行った経験あるよね。自分の番号が見つからないんだよ。何回も何回も掲示板を見上げる。どうしてもないんだよね。あぁ。心の中で何かが切れちゃう。もう立ってられない。腰が抜けちゃう。しゃがみ込んで二度と掲示板を見ることができない。虚脱の極みなんだね。一遍の詩句も出てきやしない。そこがさぁ山岳文学が出てこない証左でもあってさ。村上春樹も村上龍も三島も太宰も川端も開高も大江そう著名売れ筋の誰も山の小説を書いてない。山岳小説かな。井上靖の「氷壁」ぐらいね。あれは例外中の例外だ。やっぱりほら小説を書くって座学の書斎術なんだよ。だけど俺は山登って研究生活を死ぬまで送りたいの」
 「水が来るまで時間が止まってるとしか思えないほど流れないんだよね。水が足りない渇水。しかもこの渇きこそが人間の本然本能の欲求欲望なんだ。山で本当の欲望を渇仰する瞬間を得るんだよね」
 「もう忘れかけていたころにやってくるんだ。水を持った使者がメロスよろしく戻ってくる。そいつは英雄じゃない。自分だけ先にシャツをびしょ濡れにして飲み干しているんだね」
 「好きなだけ飲め!」
 「まるで乞食に恵んでやるようにポリタンクを渡す。その瞬間、奪い取ってラッパ飲みが始まる。メロスは全部飲み干そうとする仲間に激怒するんだね」
 「やめろ!」
 「全山にこだまする絶叫だよ。自分はまんまと我先に出し抜いて飲み干しておきながらその残り水をガンガン飲んじゃう仲間に向かって叫んじゃう。俺の水を全部飲むんじゃないよってことかな。まぁ熾烈な生存競争の渦中に我らパーティは突き落とされるわけ。でもさぁもうピーク間近なんだよ。そんな安堵感もあるわけ。もう登らなくていい。もうすぐ目的地に到達する。或る意味破れかぶれなんだよ。まさに青春の原点なんだね。そのピークに近づいたんだよ」
「なんかあれだね」
「そうね。レジャーじゃないんだよね。何だろうね」
「青春ってことだよ。超えてるね。青春異常体験なのさ」
「さて槍岳の頂上付近の山小屋周辺にもテント場はあるけどもうぎっしり張られている。立錐の余地どころか幕張の戯れ。陣中に戯言なしなんだね。アルピニズムの只中に我らがパーティもいるんだよ。そこでこの俺がリーダーよろしく下方を指差して言うのさ」
 「下るぞ。我らのテントを張るんだ」
 「なんか軍事教練みたいだな」
 「そうね。作戦と指示系統。飽くなき訓練の連続。敵軍をどう攻略するか。指揮官と末端兵士。まるで陸軍学校だよね。まぁ平時民生の今頃だけど。有事戦時でもないのどかな山岳タイムだけど。油断大敵だよ。大自然しかもその精鋭的地帯であるアルピニズムがだよ僕たちと対峙するんだ。山頂にアタックなんて言うけどさ。何を攻撃したのかするのか?自己との内面闘争が併立するんだね。しかもメロスを欺く偽者だって忽然と出現するわけでしょ」
 「軍隊さながらってこと?」
 「そうだよ。真夏の北アルプスしかも槍だよ。全国からやってくるじゃない。しかも旧態依然の精神主義を翳す山岳部がいるわけ。いきなり聞かされるんだよ」
 「ごっちゃいす。ごっちゃいす」
 「何それ?」
 「まぁ命令確認の受け答え応答かな」
 「まるで御意ってやつ?」
 「いやもっと熾烈で過酷な忠誠心と謙虚さが含意される。とにかく団体行動の鉄の規律を維持管理しながら発展させないといけない使命と責務が必要なんだね。それこそが実に山岳ベースの基本感情なんだ。命令への矛盾なき盲従しかも死まで賭す。そうなるとはたから見たらカルト教団どころじゃない。あの時代もそうだったよね。陛下を利用して軍部が国会を牛耳って、総理大臣と陸軍大臣を兼務する政教一致どころか神権王制まがいのそれ以上の戦時内閣を組閣したじゃない。統帥権干犯だよ。陛下を蔑ろに国家を軍隊に矮小化して独裁行政を敢行したじゃない。山岳どころの騒ぎじゃないよ。アルピニズムとファシズムが一体化する事態かも知れないよね。ごっちゃいす。ごっちゃいす」
「ねぇごっちゃいすって彼らは学生なの?山岳部の部員たちなの?」
 「まるで得体が知れない奴らだよ。レジャーでも娯楽でも気休めでも暇つぶしでもないそんなお遊びとは隔絶したシンボリックな連中の出現だよ。とにかく滑稽な場違いでもないけど違和感だらけ。野営テントの周りを機敏に動き回るけど先輩部員に叱咤されちゃう。戦中戦前の大政翼賛会の学生部隊のようなさ。確かに女人禁制とかの時代錯誤でもないけどさ。あの集団の中に女の子がいたらそりゃもう大変なことになっちゃう」
 「山は神聖なんだよね?エロは禁物なんだよね?山岳で輪姦とかダメだよね」
 「多分任務遂行の一貫というレトリックなんじゃないの。男女同権のそれかもね。でもさぁ女の子たちは山男に惚れやすいんだ」
 「そうなの?ワイルドな男らしさにほの字になっちゃうの?」「ねぇお風呂ないんだよね。お風呂入りたいけど無理なんだよね?」
 「どんな山小屋も風呂無しだよ」
 「それじゃぁかわい子ちゃんたち大変じゃん。汗まみれ体液まみれ」
 「そうね。彼女たちのデリケートな場所は大変なことになるよな全くな」
 「仕方ないよ。でもさぁお風呂に入れないけど大自然と一体になって身も心も清浄される。これこそが山岳ムードの特典なんだね。下界と違って天空のそのまた上だから気圧の問題もあるけど聖なる事態も加味されるわけ」
 「神聖過ぎてやばいの?」
 「人間界とは全く違う異次元の体験なんだね」
 「さて槍岳山頂のアタックを控えた前夜の満天星その星群は凄いよ。標高三千メートルのベースキャンプの夜だよ。少年時代は誰もが宇宙に目覚めるじゃない。星を見上げて何か願うよね。東大合格とかノーベル賞貰いたいとか芥川賞受賞したいとかね。クラスのあのかわい子ちゃんとデートしたいとか。クラブの可愛い先輩と駅前の喫茶店でお茶したいとか。島の海岸でチューしたいとかさ。いろんな願いを叶えたくて星空を見つめちゃうよね」
 「そんなに星が綺麗なの?」
 「って言うかさ星が大きく見えちゃう。もう手に届くんじゃないのってくらいの至近距離に錯覚しちゃうの」
 「流星や箒星がわんさか出現する。天文学目指すなら山登って夜星を見上げるべきだよ」
 「さて疲労もピークね。翌朝の起床が早いからさっさと消灯さ。午後八時過ぎにはシュラフに包まれて昏睡状態になっちゃう。ところが山頂でご来光を仰ぎたかったけど寝坊なんだよね。それでもピークを目指す我らがパーティさ」
 「そしてピーク殺到だよ。強烈な渋滞さ。十数人人くらいしかスペースがないんだよ。狭き頂上だよ。三千百八十メーターの高さね。そんなとこに登るのに一本しかルートがない。ハシゴをエッチラコッチラ」
 「やっとピーク到達ね。万感胸に迫るわけ。みんなしばし感慨に耽っちゃう。早朝でもないけど山頂で黄昏ちゃうわけね。これからの人生をどうするべきかなんてね。それぞれみんな大学卒業したらいろいろあるわけで」
 「槍岳を下山して上高地の手前の横尾で一泊するんだ。梓川が脇に流れていてこれぞキャンプって感じだね。山岳アルピニズムのシリアスさを少し緩和させる。縦走は終わる。でもさまだ終わらない。表銀座だけじゃなくて穂高も目指すんだよ。穂高も多方面あるわけだけどまだまだ我がパーティはビギナーなんだね。だからこそ奥穂高をやるんだ。そのために涸沢へ明日は向かうんだけどあのごっちゃいすはもういないんだよね。川岸のキャンプだから大いに歌って飲んだよ。売店でビールを大量に買い込んでさ」
「確かに山岳キャンプじゃぁ大声で歌えないから盛り上がるよね」
 「しかも恋に飢えたガールたちを招き入れちゃうことになっちゃう。もちろん彼女たちは横尾までやって来ているわけだから尻軽でもないし軽佻浮薄のあれでもない」
 「やったじゃん。やっとテント買った意味があったってわけね」 「えぇ女の子とやっちゃうの?キャンプ場でそんなことできるの?」
 「できちゃうわけ。山岳ベースがそうさせちゃう」
 「エロもあれもないんじゃないの?」
 「もう縦走を体験した我らがパーティなんだよね。エロの主導権を獲得できてる。山岳の気風が具備されてるんだ。下界に降りてそれこそ人間の本然の欲望が溢れ出ちゃうんだね。だからアクメもダダ漏れなんだよ」
 「そうなの?山岳ベースはもっと神聖なんじゃないの?」
 「神聖すぎてエロすぎるわけ。エロってもんはそもそも神聖の極致なんだよね。だから極限の消耗を肉体も精神も経験する山岳ベースの渦中においてはエロそのものが研ぎ澄まされる。そんな聖域の空隙へ欲情まみれのガールが闖入する。エロのゲリラさ。そして貪欲紊乱なまでにチンポも咥え込んじゃう」
 「キャンプ場でそんなことしたら山男たちに袋叩きにされるよ」
 「そんなシリアスな状況すらビヨンドしちゃうわけでしょ。青春のエロの発露ってやつはさぁ~」
 「山男なんか気にすることないよ。山ガールこそ気にしなきゃ」
 「まぁテントの中で姦淫し尽くすわけだけど。一夜を過ごしたホットなガールたちと別れて我らが憧憬の涸沢を目指すんだ。多分不思議な光景に出くわすよ。途中でスキー板を担いぐ学生たちと一緒に登るんだ。真夏にスキー?摩訶不思議でもないけど異常な光景だよね。涸沢には雪渓があるんだよ。そこでスキーの練習ができちゃう。大自然の造形の凄まじさなんだね。スキー部のガールはみな美形で金持ちさ。上流階級の乱れたエロも視野に入れながら我らパーティは勇んで登るんだよ」
 「まさか彼女たちもアタック可能なの?」
 「大学のスキー同好会だからラブなる出会いの場でもあるわけだけど普通のナンパクラブみたくテニス同好会なら海水浴に行って彼女たちのビキニを剥ぐわけでしょ?テニス同好会の夏合宿は危険極まりないわけ。でもスキー同好会は冬が本番だけど夏だってスキー滑りたいわけでしょ。だから夏山の雪渓を目指すのさ。涸沢はもう夏山スキーのメッカなんだよ」
 「そうなの」
 「縦走が終わっても登りが復活するんだね。涸沢でテント張るんだけど真夏のシーズン真っ只中だからいい場所がないんだよ。全国から登山客が殺到している。日本アルプスのメインだもの。そりゃ剱岳とかもあれだけどやっぱり穂高がナンバーワンさ。もういい場所にはテント張れないよね。満員御礼どころじゃないよ。朝の通勤通学の山手線の満員電車みたいなあれだね。残された場所がさ悲しいけど石ころだらけでやばいわけ。崖の近くにすこぶるいい場所を見つけて貼ってたら山小屋の山男がどやすわけ。「君たちここは危険だよ。何考えてるんだよ」一喝されちゃうんだね。山小屋の任務は明白なわけ。登山のプロとして山男は注意するわけね。内心多分「このドシロウトがぁ」と思っている。厳粛なムードなんだけどなにかしら惰力に委ねる感じかな。岩だらけ石ころだらけの場所にテントを張ってるとテントの持ち主が叫ぶわけ」
 「だめだよ。テントが破けちゃう。マット出してよ。地面の間に敷くんだよ」
 「全く至極当然当たり前だけど威厳たっぷりなんだね。テントはもう公共財そのものなんだね。やっぱり学生時代はさぁ公共心を学ぶべきなんだよね。将来の立身出世やいろんな野望があってそのためのキャリヤアップの学びがメインだけど大学の先生にも学ぶべき存在が少ないわけだけど我らがパーティはさぁ山岳ベースでシリアスな公共心を学ぶんだよ。テントを傷つけちゃいけない。公共財のテントを絶対に破いちゃいけない」
 「さて奥穂高へ向かうわけだけど。二人脱落するんだよね。もう登りたくない。足痛いし疲れちゃったとか言い出すわけ」
 「そうなの。せっかくそこまで登ったのに?」
 「ヒュッテの売店に青リンゴが売ってる。陽水の歌詞じゃないけどさ。山でリンゴ売りだよ。全然ふざけてないし。リンゴ売りの真似なんか絶対してないわけ」
 
 山旅最後の夜は離脱組もその青リンゴを買って登頂を祝った。
 
 「さよなら穂高」

                                                                                                  (了)


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