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ノベル『鱸』 第七回
政悟と布津子はカウンターに座っている。政悟は京旬を思い出しながら今夜は全てを布津子に任せた。
「あのぉ。お造りは島さんの鰡と蝦蛄を入れて特盛りでお願いします。それから連れが初めてなのでポテサラ、メンチ。それに茶碗蒸し、グラタン・・牛すじ煮込み・・〆はおうどんね。ぶっかけ。あら?お酒はお任せで。まさか妊るまで?あはぁ」
布津子は珍しく下ネタ混じりに流れるようなオーダーである。合わせる日本酒はサブにお任せ。御意にて候かよ、コクンと頷く。
ファン心理の妙なる自惚れの俗物趣向。こんな熟女を酔わせてどうするのよ。アァハァン。妖艶な笑みが浮かぶ。
凄腕利き酒師のサブは必殺仕事人の闇の仕置き人の風貌も色濃い。日本酒とは言いながらとんでもない凄味のヤクでも混ぜ込むかも。
料理関連は髪の毛混入もあって頭髪にうるさい。帽子やバンダナ手ぬぐいで巻き巻きするのだ通例の飲食スタッフのスタイルだが、サブはロン毛しかもあり得ぬ鬢まである。野性味を狙ったのかワイルドなセクシーを競ったのか。ファンも性差判別も付かぬほど、かも。
依然相変わらず政悟は緊張したままであった。布津子が俄なのか一夜漬けなのか、とっくに常連風情でリラックスしているのに、勝手な思いこみで自虐になった。
やっと来た大三郎のお造りである。瀬戸内海の岡山沖で漁獲の蝦蛄である。岡山は桃太郎といった俗受けの物語もあるのだが、桃とデニムが名産、製産地である。讃岐への入口出口でもあって瀬戸大橋の基点である。快速マリンライナー。
そして〆鯖。光りもの雄。寄生虫も危険だけど鯖がないなんてあり得ない。さばさばし過ぎな淑女は嫌だ。もっと艶やかに濃厚に喘いで欲しい、鯖女万歳。サバサバクールにウエットでも。
遂に鳴門の鰡である。日本一の漁師である島浩二の鰡である。ボラボラぼやぼやしてはいけないけれど、鱸は出てこない。大三郎でも「高すぎて」だめである。島の魚は高額であった。
今回、大三郎のお造りは五点盛りの特盛りである。特盛りを注文してくれた客を粋に感じて「多めに」サービスする。ご祝儀気分もあったし、サービスは自分に還ってくる天に唾するお得感もある。
全ては相対論に収斂される。こちらの信力、行力があればあるほど果報も絶大なのだ。その能動的な主体たる自分を磨き自分自身を鍛え上げていく。結果は自ずと後から付いてくる。この大三郎の戦略的な人間力の倍増計画、その実践実行。森大三郎は激しく意気込む。
島の鳴門鰡が躍動する。店では沖鰡に磯鰡を扱う。まったりもっちりする絶妙の触感をシコシコ味わいながら政悟は備後福山を流れる芦田川の河口堰や神島橋や山手橋の近くで飛び跳ねる夏の鰡を思い出した。
鰡は沙魚同様に淡水にポロロッカよろしく遡上する。しかもトップウオーターを野性味素晴らしく跳躍する。湾近海どころか河口に繁殖する。そしてもっともっと遡上してくるのだ。そんな生活排水が流入する流域で人間を嘲笑うかの如く飛び跳ねる鰡に政悟は得体の知れない敵意憎悪を抱いたものである。
中高生時代にテナーサックスを練習した一級河川芦田川の神島橋の袂である。橋の下のサックス練習場であった。
剥き出しの自然舞台である雨風がきつい河川敷は、江戸時代の昔には様々な芸能集団が芸を披瀝したハレの場であった。そんな歴史的時代の幻影を感じながら軍隊式の軍楽を政悟は奏でた。
政悟の少年時代はパレードに室内演奏に月に何回も「出動」が繰り返された。福山一の音楽集団であると東京の音大中退の吉富隊長は豪語した。
しかし楽団には専用の練習会場がなかった。芦田川の国道二号線を乗せる神島橋の下、河川敷が橋の外灯に照らされて政悟は楽譜を見たのである。
芦田川の鰡も沙魚も彼ら楽団の音律を川の中、水中で聞いた。鰡たちは政悟のテナーサックスの音色にも染まった。
鰡は偶に長い旅に出る。瀬戸内海の備後灘を経て大小様々星の数ほど多数の島々をぬって、しかも鳴門海峡を経る。そこは島浩二の漁場エリアである。時空を超えた政悟の鰡が島の網に捕獲された・・。
確かに味にはジャストサイズの単位がある。鮬では小さい、フッコでもまだ小さい。何と言っても高級魚として刺身が取れない。お造りが造れない。サイズが足りない。鰡も成長魚なのだが。
今咀嚼する鰡は沖鰡であった。エラ呼吸を専らにする鰡なのだが沖の清涼な潮に洗練されて政悟の垣間見た故郷の河川の鰡とは全く異質の食用に相応しい鮮魚である。
布津子は前回の濱崎の会食会以上に感動している。
セオリー通りかも。仲良しや単なる知人から親愛なる友人になる、しかもその店の常連になる法則めいた期間というのがあって十八日以内に再度再会すると気心の知れた胸襟分かつ間柄になれる。その鉄則を一週間以上も短縮濃縮して最早、名店「大三郎」の純然たるメーンの常連の仲間入りを果たした実感を味わった。
しかも前回初回に食した鰡よりも数段数倍の美味だったから感動に輪が掛かって当然だったのである。
「ねぇ。あんた、美味しいでしょ?この鰡って最高なんだから」
政悟は神妙に頷き返しながら、ふと布津子を見やる。
やれやれ。滂沱の涙を拭おうともせず、布津子は天井を仰ぎ見ていた。オーソレミーヨどころではない、オーマイガットォ。
布津子は嗚咽しながら咀嚼忙しい。誠に詮方なしの味わいだったのであろう。
「ねぇそんな大袈裟な・・」
「うぅ。わぁ~。うぅうあぁ」
布津子はカウンターの突っ伏してした。
「ちょっとぉ、ちょっと」
政悟は冷ややかに布津子を見下ろす。
「大丈夫ですか?」
サブも声を掛けた。誠に優しき薩摩隼人である。
政悟は、今夜は油断しない。いつも外食すると帰宅してからが大変だった。討議が行われるのだ。それは布津子裁判長の反省会であり、布津子校長によるHRでもある。
グルメに馴れていない政悟は、未知なる発見の連続だ。店にやってくる人間全てに興味津々である。上野動物園にやって来た生徒そのままの新鮮で純粋な気持ちでお店の中にいたのである。それが布津子には気になってしょうがない。
「観察なんかしないでよ」
「キョロキョロ、ダメダメ」
「全く、ジロジロもアウト、アウト」
布津子が怒るほどに政悟は手放しで楽しくなる。怒れば怒るほど嬉しい。だから政悟も呼応する。尚更人間観察を政悟は止めない。止めてなるものか。絶対に、絶対に。新たな味の発見や味覚の新たな味わい。