ハンセン病療養所 長島愛生園へ行って
コロナ期間自粛中にハンセン病患者 近藤宏一さんの『闇を光に』という本を読んだ。
らい菌はもともと感染力が低く、現在では治療薬で治る病気だ。しかし昔の日本ではハンセン病に関する知識が浅く、感染が確認された人は全国にある療養所という名の隔離施設に収容された。
収容された患者は島から逃げられないように金銭は取り上げられ、島でしか使えない通貨で生活する。それでも逃げ出していく人はいたそうで、捕らえられた人は監房に閉じ込められさえしたようだ。完全に犯罪者の扱いである。
近藤さんは病気が重症化するにつれて手先の感覚は鈍くなり、目も見えなくなった。
典型的なハンセン病重症患者の症状らしい。
失明し、常に死のことを考えていた苦しみを乗り越えて、近藤さんはハーモニカを初めて青い鳥楽団を結成する。手先で点字を読むことは出来ないので舌に血を滲ませながら点字を読んだそうだ。
その手記に私はとても感銘を受けた。
近藤さんは一体どのような地で生活していたのだろうと長島に行ってみたくなった。
わたしの住む地から長島まで車で6時間。
道中はあっという間だった。
長島には虫明(むしあげ)という岡山県の本土から小さな橋が掛かっている。(平成に入ってようやく橋がかかったそうだ。)
島は瀬戸内の海が一望でき、海の上には所々黒い長四角の畳のようなものが浮いている。
漁に使用するものだろうか。
晴れていてほんのり潮の匂いがしてとても気持ちがいい。
ハンセン病院の資料館を観覧した後、展示室の中にあった島の地図を見てみた。
島の丘の上に納骨堂があるという。
当時ハンセン病は遺伝性があるという誤った知識が広まった。身内で感染者が出たとなると親族も差別を受けてしまうので、家族とも縁を切られ、更には身元を特定されないように偽名を用い、自分の家の墓に戻れない人もいたそうだ。
納骨堂に続く道は細い小道になっている。
木々に囲まれたその道を通った時、わたしは不思議な感覚に襲われた。
なぜかとても苦しかった。
なんで自分が。どうして。
島から出ることは許されない。子供を作ることだって。不遇な運命を強いられた人たちのなにか念のようなものを感じた気がした。
くたくたになって帰路に着き、家に帰って再度近藤さんの『闇を光に』を読み直した。
悔しかったろう。悲しかったろう。
それでも近藤さんは文句の一つも手記には記さず、一生懸命に今を生きていた。
今のわたしは一体どうだろうか?
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