囲碁史記 第147回 木谷道場
呉清源と共に「新布石」を発表するなど昭和前期の囲碁界を牽引してきた木谷実は、全国から優秀な少年を集めて育成したことでも知られ、「木谷道場」には七十名以上が弟子入りし、五十名以上のプロ棋士が誕生。昭和後期には出身の多くの大棋士がタイトル戦線をほぼ独占するほどの勢いであった。
木谷道場とは
木谷が初めて弟子を取ったのは昭和八年頃、長野県の地獄谷温泉で新布石を創り出した頃である。
昭和十二年に神奈川県平塚市へ居を移すと、門人達が囲碁に集中できる環境を整え「木谷道場」を開設する。この年、「本因坊名人引退碁」の挑戦者を決定するリーグ戦が開始され、翌年には本因坊秀哉名人と木谷の引退碁が開始されている。
当時、木谷は全国をまわり指導碁(稽古碁)を行っていて、行く先々で碁才のありそうな人材を発掘しては、自宅へ引き取っていた。プロ棋士を目指すのに年齢は低いほどよいという考え方で、弟子たちのほとんどが小中学生の時に入門したという。
木谷には三人の息子と四人の娘がいたが、それに加えて多くの子供を預かり、その子供たちが何不自由なく囲碁に集中できる環境と場所を確保した訳だが、それを支えていたのは妻の美春であった。
美春は、後に新布石創始の地となる信州地獄谷の温泉宿「後楽館」の娘で、たまたま木谷が先輩棋士とこの地を訪れた際に、ひと目惚れして結婚を申し込んだという。
突然のプロポーズに美春は戸惑い、当時は碁打ちがまともな仕事ではないと考える人も多かったことから美春の母や祖母が猛反対していたが、木谷は一年かけて必死に頼み込み、ようやく結婚を許される。
木谷実と柴野美春は昭和六年に結婚。当時木谷は五段で二十二歳、美春は二十一歳。媒酌人は木谷の師匠・鈴木為次郎七段がつとめている。
木谷は結婚してから二・三年目から弟子を取り始め、その生活は四十数年間にわたって続いていく。名の知られた棋士が数人の内弟子をかかえることはよくあることだが、木谷のように多くの弟子を長きにわたって育てることは珍しい例といえる。
地方へ行くたびに木谷が弟子を連れて帰るので、美春が「もうこれっきりにして下さい。」と嘆願すると、「うん、わかった」といいながらも旅に出ると、また連れ帰ってくる。その繰り返しで、木谷家に寄寓する内弟子は増えていった。
平塚では戦後の食糧難時代に大勢の子供を養うため、五〇〇坪の農地を借り、麦・芋・野菜などを植え、一二〇羽のニワトリ、豚やヤギを飼って自給自足の生活を送っていた。
木谷道場は碁の修業の場であり、その生活は厳しく、次のように決められていたという。
・午前六時・・・・・起床、棋譜ならべ
六時三十分・・ラジオ体操
七時三十分・・朝食
八時・・・・・学校へ
・午後三時・・・・・帰宅、おやつ、スポーツ
五時・・・・・夕食、あとかたづけ
六時~九時・・対局と検討
十時・・・・・就寝
木谷は、生活費を稼ぐために地方まわりに精をだしていたため、そのあいだ、木谷家の留守を守り、道場全体をまとめるのが美春の役割であった。
子供たちはみんなが美春を「おかあさま」と呼び、美春は、勉強を怠ったり決めた規則を破った子がいると、容赦なく「故郷へ帰しますよ」と説教し、厳しくしつけたという。
道場では、食事は好き嫌いなしでなんでも食べる。内弟子同士のケンカは泣いた方が悪い。碁を打つときはアグラも座ぶとんもダメ。酒・タバコ・賭けごとは年齢にかかわりなく禁止というルールが定められていた。
一日の生活のパターンは、起床したらまず掃除、最後に起きた者が便所掃除をして、そのあと古碁や新聞碁を一局ならべる。
そして、六時半から全員でラジオ体操し、それから食事。一番遅くまで食べていた者や、おかずを残した者が後片付けをさせられた。
学校から帰ると、晴れた日には近所の公園で野球かソフトボールで遊び、九時頃まで宿題や碁の 勉強、内弟子同士のリーグ戦とその検討会が行われた。たまに師匠の木谷師が顔を出すことがあり、それだけで部屋中に緊張感が走ったと伝えられている。ただ木谷は多くを語らず、じっと弟子たちの打碁を見ているだけだったという。
木谷道場を経済的に援助したのがは木谷後援会長の遠山元一である。
遠山は日興證券の創業者で初代会長を務めた実業家で、囲碁の愛好家でもあった。
木谷が怪童丸といわれていた頃に碁の手ほどきをうけ、九子から始まって 置石がひとつも減らなかったことから、雑誌に、「八年も九年も井目で碁の稽古している人がいる。 教わる方も教わる方だが、教える方も教える方だ。」と書かれ、木谷に「私はもはや見込みがないでしょうか。」と訊ねたところ、「いや、そんなことはありません。あなたを教えている私自身が上がった分、あなたも上がっているわけです。」と木谷が答えたというエピソードが残されている。
遠山元一は、昭和十七年に木谷後援会をつくり終身会長を務めている。
なお、木谷は戦争のため昭和二十年に遠山元一別荘(山中湖畔旭日丘)へ疎開し、平塚の屋敷は間もなく焼失している。
そして、再び平塚へ戻ってきたのは昭和三十年のことである。
木谷門下生
木谷実は木谷道場で五十人のプロ棋士を育てている。院生の中で木谷門下はすぐにプロになるので「木谷のロケット集団」と呼ばれていた。
また、プロを目指す棋士だけでなく、全国大会に出場するような地方のアマの強豪が訪ねてきたり、大学生の強豪が住み込みで勉強することもあったという。
木谷道場出身の主な門下生は次のとおりである。
加田克司(大分県別府)
小林禮子(木谷の三女)
大竹英雄(福岡県北九州市・名誉碁聖)
石田芳夫(愛知県・二十四世本因坊秀芳)
加藤正夫(福岡県福岡市・名誉王座)
趙治勲(韓国・名誉名人・二十五世本因坊治勲)
小林光一(北海道旭川市・名誉棋聖、名誉名人、名誉碁聖)
武宮正樹(東京都・本因坊四連覇など)
小川誠子(福井県福井市・女流二人目の五百勝達成)
小林覚(長野県松本市・棋聖・碁聖など)
本因坊戦創設時、本因坊となるのは呉清源か木谷実であろうといわれていたが、両者とも本因坊となることはなかった。そして、昭和四十六年に弟子の石田芳夫が木谷の悲願である本因坊を獲得することとなる。
木谷は毎週土曜日の一時から六時に道場で、アマチュアも参加できる「土曜木谷会」という碁会を開いていた。昭和五十年に亡くなった後は、妻の美春によって引き継がれた。十六年間続けられ、大矢浩一、梅沢(吉原)由香里、武宮陽光、桑原陽子らを輩出している。
平塚木谷道場跡地
木谷道場があった平塚市では、木谷実や多くの弟子の功績を讃え、囲碁を平塚の特色ある文化として位置づけ「囲碁のまち ひらつか」を掲げている。
市民に囲碁を普及させるため、様々な囲碁イベントを開催し、 特に「湘南ひらつか囲碁まつり」における多面打ち大会は、年々規模が拡大され、毎年全国から多くの参加者が訪れている。
また、木谷実や一門の功績を紹介するため、平塚市民センター内に「木谷實・星のプラザ」が開設され、平成三十年のセンター閉館に伴い、現在はひらしん平塚文化芸術ホールへ移転している。
木谷道場跡地は、現在マンションとなっている。敷地の角には、「木谷道場跡地」という碑が建立されていた。
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