囲碁史記 第79回 巌埼健造 江戸時代編
幕末、そして明治維新という社会の劇的変化の影響は囲碁界にも及び、棋士として活躍しながら囲碁界を離れた人物、また離れた後に再び復帰した人物がたくさんいた。復帰した人物の代表格といえるのが後に方円社三代目社長となる巌埼健造(海老沢健造)である。
江戸時代には海老沢姓を名乗り、明治以降に巌崎姓となっている。
巌崎の前半生は苦難の連続であったが、節目節目で出会った人物に助けられていく。
今回は江戸時代の巌崎の人生について紹介していく。
東福寺時代
東福寺へ預けられた経緯と囲碁の修行
健造は天保十二年九月一日、多摩郡田無村(西東京市)に生まれる。幼名を鍋吉といい、後に忍治へと改めている。
健造が生まれた海老沢家は代々農家であったが、その傍らで旅人宿を営み、庄屋を務めたこともある名門として知られていた。鍋吉は父久衛や親戚の影響で七歳の頃から囲碁を覚えたと言われている。
十四人兄弟姉妹の次男で、その半分は夭折しているが、なお七人の兄弟姉妹がいて生活は楽ではなく、その上、当時の庄屋により財産を奪われ生活は困窮していった。そして鍋吉は支援を申し出た新座郡下新倉村の東福寺住職の実願和尚に預けられることとなる。
東福寺は現在の埼玉県和光市にある下新倉村氷川社(下新倉氷川八幡神社)の別当寺で、祈祷専門の寺であったが、明治元年に廃寺となり現存していない。
住職の実願和尚は、かつて冤罪により捕らえられた際、父久衛に助けられたことがあり、その恩を返すため、申し出て鍋吉を寺で預かり養育していく。この時、鍋吉の勝気な性格を憂いた和尚は、名を忍治へ改めさせている。
そして、忍治に碁の相手をさせていた実願和尚は、その才能に気が付き、太田雄蔵へ弟子入りさせることとした。忍治は当時本因坊秀和に星目で打って一目勝したという話も残っている。
しかし、資金難により度々月謝の支払いが遅れるようになったため、再び寺へ帰ることとなったという。
実願和尚との逸話
忍治と実願和尚の関係性についてはいくつか逸話が残されている。
忍治は実願和尚と互先の碁であったといわれ、ある日、和尚と夕食を賭けて対局したところ忍治が勝利した。ところが、得意げに忍治が膳に向かっていたところ、檀家より蕎麦が届けられ、和尚は賭に負けて膳は食べれないからといって、独りで蕎麦を食べてしまったという。和尚は予め蕎麦が来るを知っていてわざと負けたのだ。
悔しがった忍治は、年末の大晦日に元旦の塩気断ちを賭けて和尚と対局、勝った和尚は大喜びしたが、忍治は食事の際に悔しがるそぶりも見せず、歳暮に貰った砂糖袋を持出してきて餅に舌鼓を打ったという。和尚はようやく忍治の真意に気付き「こやつめ、とうとう去年の仇を討ちおった」と語ったと伝えられている。
忍治が十三の時、実願和尚が危篤となる。漢方薬の大黄を飲まなければ治療は難しいと聞いた忍治は、十枚の天保銭を元手に引又村(現・志木市)次いで川越で賭碁を行い七両二分を稼いだという。ところが喜び勇んで帰途についたところ、途中川越城外の松並木で強盗に遭ってしまう。
忍治が、「衣類は渡しても、所持金は師の薬を買うための大事な金であり死んでも渡さない」と必死に訴えたところ、賊は何も奪わず、この辺は物騒だからと人通りある辺りまで送り届けてくれたという。
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