囲碁史記 第146回 橋本宇太郎と関西囲碁界
関西囲碁界の動向
「幻の棋院会館」の回で関西棋院設立の経緯を説明したが、改めてその詳細と、戦後の関西囲碁界について紹介する。
もともと関西は囲碁が盛んな地域であった。幕末期に井上門下の中川順節が暮らし、明治に入ると黒田俊節や泉秀節が活躍。「関西囲碁会」、「関西囲碁倶楽部」などが設立されるなど、本因坊家と方円社がしのぎを削る東京とは距離を置き、独自の勢力を保ってきた。
明治二十四年に井上松本因碩が神戸で客死すると、跡を継いだ十四世井上大塚因碩は井上家の拠点を関西に移し、大正十三年に日本棋院が設立された際にも、十六世井上恵下田因碩は協議に参加することなく独立を保っていた。井上家が棋院参加を見送ったのは、家元の権威の源である免状発行権を手放すことを嫌ったためと言われている。
第四期本因坊戦
高野山の第三期決戦三番勝負に破れ本因坊位を失った橋本宇太郎は、続く第四期の予選ではシードとして第二次トーナメントから参加したが、初戦で木谷実に敗れ敗退している。
この期では、従来の段級累進制が廃止され、瀬越憲作八段も第一次トーナメントから出場。一次を勝ち上がった四名と、大手合前期の実績や、他の棋戦の実績を考慮して選定された四名のシードの計八名で第二次トーナメントが行われ、勝ち残った木谷実八段と林有太郎七段の三番勝負により、木谷八段が初の挑戦者へ決定した。本因坊戦創設以来、本因坊となるのは木谷か呉清源のいずれかであろうと言われ続けてきたが、木谷はようやく本因坊薫和への挑戦権を手に入れたのである。なお、第三期まで出場していた呉清源は、この期から参加していない。
この期からコミ碁を採用する方式が確立。対局地は第三局が東京で行なわれた以外は、近郊を転々として開催されている。
実力者の木谷が出てきたことで、本因坊薫和が不利とする見方が一般的であったが、手練の岩本がにわかにくずれることはなく、勝負は第五局までもつれこみ、本因坊薫和の勝利に終わる。本因坊戦創設以来、初の連覇である。
関西棋院の設立
大正十三年の日本棋院創立直後に設立された日本棋院関西別院は昭和二十一年八月に日本棋院関西本部と改称している。当時の理事長は光原伊太郎七段、副理事長は細川千仭七段。関西本部では独自に大手合が行われ、昇段制度もあったが、五段以上の昇段は認められず、四段以下の棋士が東京の手合に参加する際には、改めて資格審査が必要であったという。
そうした中でも久保松一門、光原一門の棋士である橋本、木谷や高川格ら天下を狙う逸材が東京へ進出していた。そして、戦況の悪化で第二期本因坊である橋本宇太郎が疎開してくると、関西囲碁界は大いに盛り上がっていく。当時東京の日本棋院に在籍していた橋本は関西本部顧問を務めていたが、戦後、東京へ戻ろうと考えていたところ、地元有力者の熱意に負け、師匠の瀬越とも相談の上、このまま関西を拠点としていくことを決断している。感激した有力者は大阪へ囲碁会館を建てようと三十万円を寄付したという。
昭和二十二年の秋、日本棋院は秋季大手合を急遽中止し、空襲で焼失した会館を再建するために全棋士が募金活動に入った。日本棋院関西本部には五十万円の割り当てがあったが、折衝の結果、半分は大阪で使い、残りを東京へ送ることで話がつき、各棋士が募金を開始する。ところが、当初難航すると思われた募金は、熱心なフ ァンの強い支持もあり、先の三十万円も合わせて予定をはるかに超える九十八万円が集まるという結果となった。しかし、いざ短期間に大金が集まってみると、なにも東京で会館を建てるために金を送ることはないじゃないかという意見が、棋士だけではなく、金を出してくれた人々の中から多く出始め、結局、募金は東京へ送られず、昭和二十三年六月に天王寺区細工谷で戦災を免れた大きい家を買い会館へ改修し、まもなく財団法人の認可を受け、財団法人関西棋院の看板が掲げられた。理事長大屋晋三氏、副理事長橋本宇太郎八段、理事に光原伊太郎七段、細川千仭七段が名を連ねている。これに納得しなかったのが日本棋院であり、特に棋院建設委員会委員長の津島寿一は激怒していたと伝えられている。
橋本に加え、昭和二十四年には岡山から第一期本因坊である関山利一が大阪に移住してきて関西棋院に参加するなど関西囲碁界は大いに盛り上がるが、関西棋院は形式的には独立していても、実質的には日本棋院翼下の組織であり、高段(五段以上)への昇段には日本棋院審査会の承認が必要であったという。アマチュアへの免状発行も大阪、京都、兵庫、和歌山、奈良、滋賀、岡山の二府五県に限られ、免状は日本棋院発行のものを用い、免状料の大半を東京に納めなければならなかった。
この時代、日本棋院所属棋士は自動的に評議員の資格を持っていたが、関西棋院所属の棋士には対等の資格は与えられていなかったという。
第五期本因坊戦
橋本が復活を目指す第五期本因坊戦の予選は昭和二十三年五月より開始されている。第五期では第四期の任期が実質的に一年となっていたため、改めて二年一期制としている。
従来の予選は一発勝負のトーナメント戦が採用されていたが、必ずしも実力者を選ぶのに適切でないという意見もあり、第五期では一人が最低二局を打つ濾過式制が採用されている。 最初の五段の予選では、二連勝した者が勝抜け、一勝一敗となった者のみで三回戦を行 なった結果、東京では高橋重行五段、梶原武雄五段(途中六段に昇段)、関西・中部からは鈴木憲章五段と酒井通温五段が 六、七段戦に参加。続く六、七段級予選では林有太郎七段、長谷川章七段、高川格七段、鈴木憲章五段が勝ち上がった。そして、木谷実、橋本宇太郎、藤沢庫之助の各八段も参加した七名でリーグ戦を行なった結果、橋本八段が五勝一敗となり本因坊薫和への挑戦権を獲得。本因坊戦初のリターンマッチが実現する。
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