囲碁史記 第20回 本因坊道策の登場
四世本因坊道策は本姓山崎、幼名を三次郎という。正保二年(一六四五)に石見国馬路村(現在の島根県大田市仁摩町馬路)に生まれた。
馬路にある延長約1.4kmの円弧状の砂浜「琴ヶ浜」は、歩くとキュッキュッと音が鳴る鳴砂として知られ、「日本3大鳴き砂」の一つとして国指定天然記念物及び日本遺産に認定されている。幼い頃の道策も砂浜を歩いていたのかもしれない。
石見(島根県の西半分)の人々が尊敬している偉人に「石見の三聖人」というのがある。和歌の柿本人麻呂、日本画の雪舟、囲碁の本因坊道策である。昔は文化の香りが高い土地柄であったのだろう。山陰、山陽からは昔から囲碁の名手が多く出ているから、碁が盛んであったと思われる。
道策が生まれた山崎家の子孫の方は現在も馬路で暮らしておられる。
道策の祖父である松浦但馬守は、戦国大名毛利輝元の家臣で一万石を領していた。この松浦但馬守が関ヶ原の戦で敗れ隠遁したのが石見国大田村の山崎である。村の人々は山崎公と呼んで敬い、これより代々、松浦但馬守の子孫はこの地名をとって山崎を姓とするようになった。
松浦但馬守の子を山崎善右衛門といい、この人の代から馬路村神の前に仮寓し、ここで大久保石見守長安と共に石見銀山の開発に専念し、掘り出した銀は神の前の港から各地に送り出していたという。のち善右衛門は現在の屋敷に定住し、代々庄屋として栄えたという。
山崎善右衛門には三人の男の子があり、長男が家を継いだ初代の七右衛門、次男が三次郎(道策)、三男が千松(道砂因碩)である。なお山崎家では道策から二代のちに井上因砂因碩も現れている。
三次郎は七歳のときに碁を覚えたと伝えられている。手ほどきをしたのは母であったとされる。
山崎家には、現在でも三次郎が使用したと伝えられる盤石が保存されている。碁石は自然石や貝がらであり、碁笥の周囲も欠けている。碁盤はもちろんカヤではなく、松か何かありきたりの材料でこしらえたもののようだ。
道策の母の名は渡辺ハマという。『坐隠談叢』によれば「雲州刈田佐渡守の女」とあり、気丈で、かなり教育熱心であったと伝えられている。ハマは道策が生まれる前に肥後藩細川家の乳人をつとめたとされる。熊本藩三代藩主細川越中守綱利の乳母である。大藩の若君に乳を差し上げるということは、よほど氏素性が確かで教養のある女性でなくてはかなうまい。したがって碁を知っていたのも当然のことであり、筋がよかったのではないかと想像される。
なお、『坐隠談叢』には「母曽て細川有齋の乳人たるの縁により」という記述があるが、これは間違いであろう。細川幽齋(藤孝)は一六一〇年に死んでいるから百年以上の誤差がある。恐らく「細川家の乳人たる縁により」の書き損じと思われる。
ハマは教育に厳しい母だったようで、三次郎が習ったことを忘れたりしたときは、井戸端につれ出して素っ裸にし、冷たい井戸水を頭から浴びせたと伝えられている。山崎家の裏手には今でもその井戸が残されている。
三次郎がどのような経過で上達していったかについては何一つ資料が残されていない。
三次郎が正式に専門家について修業することになったのは十二、三歳のころではないかと思われる。山崎家には三次郎が十三歳の頃の正装した姿が当時の有名絵師の筆により残されている。
当時石見から江戸へ出るには何ヶ月もかかる旅であり、ことによるともう一生会えぬかもしれぬ旅立ちであった。見送る家族には相応の覚悟が必要であったが、少年三次郎にしても並々ならぬ決意であったろう。
当時の江戸の囲碁界がどういう状況であったか。まだ家元四家の制度は確立していたとはいえず、技術の優れた打ち手が幕府に登用されて扶持を受けるという、家よりも個人を重視する傾向が強かった。これが道策が本因坊家を継いでからは家元制度が固まり、囲碁や将棋が文化政策の一環として幕府に取り入れていくことになる。
この時期に安井家だけは別格で、人材も多く一門は繁栄してた。一方、本因坊家では一六五八年九月に二世本因坊算悦が没し、二十三歳の本因坊道悦が家名継承を許可され三世本因坊となっていたが、安井家は算悦と名人争いをした算知が健在であり、実子の知哲や二代目安井算哲も将来の大器として名が高く、安井一門は日の出の勢いであった。
普通なら三次郎も安井門に入ったと思われるが、三次郎の選んだのは本因坊門だった。『坐隠談叢』はこの間の事情について次のように記している。
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?