中国棋詩と宋代の詩人
蘇東坡(蘇軾)
宋代に蘇軾という人物がいた。政治家であり一流の文化人としても活躍した人物である。この時代を代表される詩人の一人であり、『観棋』という囲碁詩も遺している。東坡居士の号から、蘇東坡とも称されてている。蘇東坡の方が日本では通りがよいのでここでは蘇東坡とする。
蘇東坡は四川省に生まれ、各所の地方官を歴任したのち、政界のリーダーの一人となったが、生涯を通じて芸術の分野で大きな業績を残している。宋代きっての文豪であり、書家、画家としても優れ、音楽にも通じていた。蘇東坡の代表作としては『赤壁賦』がある。
五老峰前 五老峰の前
白鶴遺址 白鶴の遺址
長松蔭庭 長松庭に蔭さし
風日清美 風日清美なり
我時独遊 我時に独り遊ぶも
不逢一士 一士にも逢わず
誰歟棋者 誰ぞ 棋する者は
戸外履二 戸外に履二つ
不聞人声 人の声を聞かず
時聞落子 時に子を落とすを聞く
紋枰坐対 紋枰に坐して対し
誰究此味 誰か此の味を究めん
空鉤意釣 鉤を空しくして釣を意う
豈在魴鯉 豈魴鯉在らんや
小児近道 小児 道に近く
剝啄信指 剝啄指に信す
勝固欣然 勝ちては固(そと)より欣然
敗亦可喜 敗るるも亦喜ぶ可し
優哉游哉 優哉游哉
聊復爾耳 聊か復(また)爾れるのみ
(訳)
廬山五老峰のふもと
昔の姿を伝える白鶴観
立派な松が庭に影を落とし
風も日の光もさわやかだった
そこに独り遊んだとき
人っ子ひとり出逢わなかった
おやっ 誰か碁を打っているのかな
ドアの外には履物が二足
人の声はせず
時々碁石の音がするだけ
碁盤に向かい合って
誰がこの面白味をきわめようとしているのだろう
私といえば 釣り針なしで魚が釣れないように
(不勉強だったので碁はわからずじまいだった)
そこへいくと息子は碁の道に合ったのか
とんとんと調子よく指まかせ
勝つのはもちろんうれしいが
負けたって喜ぶべきだ
いいもんだね 楽しいもんだね
本当にそう思うだけさ
蘇東坡の『観棋』である。訳は囲碁詩に造詣が深い囲碁ライター秋山賢司氏によるもの。さらに蘇東坡は前書きで、「自分は碁を解さず、覚えたいとは思ったが、やはり分からずじまいだった」と弁解している。各芸術の分野で優れた能力を持っていた蘇東坡も囲碁は苦手だったようである。しかし、秋山氏は蘇東坡と関係の深かった人々には愛棋家も多く、蘇東坡自身も碁を打ったのではないかと詩を丹念に調べられたが、蘇東坡の詩だけでは碁についての知識はあるかもしれないが碁を打っていたとする直接的な証拠は見つからなかったという。ただ、蘇東坡の周辺の人々の詩を調査した結果、これが蘇東坡ではないかというものを発見された。文同という人物の詩の中に「子平」という人物と碁を打った記述があり、秋山氏はこれが蘇東坡ではないかと推理している。蘇東坡は字を「子瞻」といい、当時の政治情勢によりこれが書き換えられたのではないかとしている。
この北宋後期の時代、官僚でもある蘇東坡は保守派の旧法党に属し、革新政策を断行する新法党の王安石と激しく対立する。そして詩で朝政を批判したとして獄につながれ死罪寸前まで追い詰められている。一度は旧法党が形勢を逆転し新法党が一斉左遷されるが、再び逆転し蘇東坡も配流されている。一一〇一年、蘇東坡が六十四歳で亡くなって以降も新法党の旧法党に対する弾圧は収まらず、蘇東坡の詩集を持っているだけで弾圧されたという。
子瞻を子平の書き換えたとする秋山氏の推理は、そんな当時の情勢を根拠としている。
蘇東坡には蘇過という息子がいた。碁を打ち「能くする者」だったという記述が遺されている。
欧陽脩
蘇東坡の周りの人物たちも見ていこう。
まずは欧陽脩である。欧陽脩は蘇東坡が科挙試験を受けたときの監督である。この人物も政治家としてだけでなく詩人、文学者としても知られ、蘇東坡と共に唐宋八大家の一人に数えられている。
欧陽脩は碁を打つための家を新築し友人に詩でその内容を送っている。「棋軒」という名で現在の碁会所、囲碁サロンのようなものである。
また、政治に囲碁を交えながら論じている文もある。
「国を治めるコツは碁にたとえることができる」とし、適時適所に人材を使うかどうかが善政と失政の分かれ目だがその理屈は碁でも同じと続けている。場合場合の石の働きを知って、適時適所に打つことができる者は勝ち、石の働きを知らず適時適所に打つことができない者は負けると唱えている。さらに棋力の強い者は弱い者の悪手を見て楽になったと思い、適時適所の応手を放って勝つ。勝つ者は負ける者の逆手を使うのである。政治も同じで、失政で滅びる国は善政で栄える国に利用されると続けている。
欧陽脩は自らを「六一居士」と称したが、その理由は「一」のつく自慢のものが六つあったからだったという。一万巻の書、一千巻の金石遺文、一張の琴、一壷の酒、一局の棋、一老翁の六つ。「一局の棋」とは囲碁のことである。このことからも欧陽脩の囲碁好き度合いを知ることができよう。
王安石
宋代きっての政治家王安石についても述べよう。
青年期に各地の地方官を歴任し実体験に基づく国政改革を記した『万言書』を提出するが、第四代、五代の皇帝には採用されず、六代神宗によって宰相に登用され、大胆な改革案の実施にも神宗は強力な後ろだてとなった。これにより建国一〇〇年で相当弱っていた宋朝は息を吹き返した。財政建て直しのため急進改革の新法を次々と実施しある程度の成果を上げた歴史上の大人物であるのに、蘇東坡ら旧法の人々を弾圧するなどして後世の人間的評価を下げる人もいる。
そんな王安石は文筆家であり、早い筆運びで濃い詩文の名品を次々に作りだした。まずは「対棋与道源至草堂寺(棋に対し道源と草堂寺に至る)」という詩から。
北風吹人不可出 北風人を吹いて出るべからず
清坐且可与君棋 清坐且つは君と棋するべし
明朝投局日未晩 明朝局を投ぜん日未だ晩れず
従此亦復不吟詩 此れより亦復詩を吟ぜざらん
北風が強く吹いていて外出は無理なので君と碁を打とう。明朝にはやめるつもりだ、まだ日も暮れていないので、詩をやめて碁にしようという意味である。道源は作者の友人の僧で、君は道源のこと。
王安石は相当な囲碁好きで朝から夜まで熱中し疲れ果てることもあった。碁に熱中しすぎることはよくないことだとわかったと反省している。親しい知人十数人を自邸に招いて宴会を催したとき、客の大半が愛棋家だったこともあり碁会に変わるということもあった。
こんな王安石だが、次のような詩も詠んでいる。
莫将戯事擾真情 戯事をもって真情を擾す莫れ
且可随縁道我贏 且つは縁に随いて我贏つをいうべし
戦罷両奩分白黒 戦い罷み両奩に白と黒とを分くれば
一枰何処有虧成 一枰 何れの処か虧成有らん
碁は戯れ事で、そんなことで気持ちを乱さないでくれ。何かの縁だから私も勝ちということにしてほしい。
社会的地位の高い人が立場が下の人に言っているのである。囲碁に限らずよく見かける傲慢な光景であろう。
難しい文字の説明をしておこう。「贏」は勝ちということであり、負けの「輸」と合わせて「輸贏」といい碁の詩の常套句である。「奩」は箱のことで、ここでは碁笥であろう。
さらにもう一つ、王安石には王安国という兄がおり、その娘婿はエリート官僚だが碁に熱中するあまり職を失うことを懸念し忠告している。そのときに「囲碁は木野狐である」と言っている。木は碁盤のことである。野狐は賢く、変化を得意として、よく美女に化けて出てくる。つまり盤上にあった石の変化を指している。ここで一つ注目は、唐代では紙や布の盤が主流であったが、「木」ということは木の盤が主流になりつつあったことを示している。
黄庭堅
蘇東坡の詩の門人に黄庭堅という人物がいる。号は山谷道人で黄山谷と呼ばれることが多い。黄庭堅は師弟で「蘇黄」とも呼ばれた詩人であり書家でもあるが、囲碁詩に関しては師の蘇東坡ほど有名なものは無いようである。
その代わり『棋経訣』という対局の心得を記したものがある。その中に「三敗」と「六病」という記述がある。「三敗」は三つの負け方、「六病」は六つの欠点である。
三敗の第一は敵に欺かれること、第二は大局観を失うこと、第三は失着が多いことである。
六病の第一は欲張って石を殺したがること、第二は捨てるべき石がわからないこと、第三は劫材が無いのに劫を仕掛けること、第四は奇手を探したがること、第五は自分が危ないのに守らないこと、第六は形勢が良いともう勝ちだと思うこと。
これらは現代でも充分通じる心得である。