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囲碁史記 第102回 日本囲碁会


 明治三十七年、高田民子の支援を断り四象会を解散した本因坊秀栄は、たちまち生活にも支障をきたすようになる。そんな秀栄を見かねて支援のために組織されたのが「日本囲碁会」である。
 日本囲碁会は大会を企画する等、囲碁会と関わり深い時事新報が中心となり立ち上げたものだが、その設立の経緯について同社記者の矢野由次郎が著書「囲碁奇談」で語っている。内容をまとめると次のとおりだ。

日本囲碁会発足の背景

 秀栄と親しい犬養毅は、その窮状を耳にしたのか、秀栄を静養先の伊香保温泉へ電報で呼び出す。
 秀栄は着ていく服も無い有様で、見かねた知人からもらった白地の浴衣を見栄えを良くするため墨で黒く染め出掛けたという。
 伊香保へは一週間滞在し、犬養の碁の相手を務めたが、服は一着しかなく、しかも汗で墨が体について黒くなってしまったというが、犬養はそれを見ても何も言わなかったという。
 秀栄は犬養と酒を酌み交わしながら、「自分は秀甫のような天賦の才があるのでもなし、ただ家門の誉れを維持したい一心から懸命に勉強した結果、ようやく今日の腕前に漕ぎつけたに過ぎない。」と心境を吐露。それを聞いていた犬養は、天下の第一人者たる十七世本因坊ともあろう者が、いくら時勢の変遷とはいえ、このような境遇に陥るとはと涙せざるを得なかったという。
 明治三十七年の初夏、時事新報の矢野は福澤社長に呼び出され、『犬養(毅)と莊田(平五郎)から頼まれたのだが、本因坊(秀栄)が大分 困っているそうだ。天下の名人ともあろうものが、生活難に悩んでいるというのは甚だ気の毒な事だ。 何んとか救済方法を講じてやってくれ』と依頼される。
 矢野は救済のためには支援者を募る必要があるため、社が後援することの約束をとりつけ、早速行動にうつる。それまで秀栄が主宰していた「四象会」は高段者によるハイレベルな囲碁の研究を目指し、資金はすべて高田たみ子に頼り切っていたが、矢野は研究会が自立できるように囲碁愛好家に会員を募り、入会費、月々の会費で会を運営できるようにした。当時、日本国内は日露戦争の戦勝景気に湧き、実際には賠償金などは取れず苦しい和平であったが、一般国民はその内容は知らされておらず、国粋主義の影響で碁盤や碁石が華美になるなど、趣味の囲碁に多額の費用をかける人々もいた。そうした時代背景もあり立ち上ったのが「日本囲碁会」である。

高田たみ子との和解

 矢野は日本囲碁会立ち上げに向けて、会の簡単な内規を定め、福澤社長や犬養毅の了解のもと、早速会員募集に着手する。
まずは政財界の有力者に名誉会員として出資を募っていくが、ここで思わぬ問題が発生する。
 それは十五銀行頭取園田孝吉を訪ね、会への賛同を依頼した時の事。
  園田頭取は、『わしは碁というものは少しも知らないが、創立の趣旨には賛成しないでもない。しかし噂に聞く所によると、本因坊秀栄とかいう人は碁は強いが義理人情を知らぬ人だという話ではないか、というのは高田慎三の夫人たみ子に、彼は一方ならぬ恩顧をこうむっておきながら、いかなる事情あっての事かは知らぬが、今では高田家へ足踏みもしないというではないか。高田商会および高田家は当銀行の大口顧客である。人情七分義理三分の世の中だ。碁を趣味としていないわたしまでが、本因坊擁護の仲間に加わるのは如何なものか?』と難色を示したという。
 矢野は「それは初耳です。そのような問題があっては、会が発足したところで、果して順調に発展していけるかどうか不安なので、一つ調べて見ます」といって持ち帰っている。
 矢野は秀栄を始め、関係者から聞き取りを行い、会の発足のためには秀栄とたみ子の和解が必要であると判断した。
 しかし、和解に向けた話し合いの実施は難航する。たみ子に膝を屈したくないという秀栄は、矢野の説得に、今後芸道の事に一切口を出さなければという条件を出したが、和解に条件を出しては先方も納得しないと、矢野は再考を促した。しかし、秀栄は犬養に不満を述べたようで、矢野は福澤社長からあまり深入りしすぎるなと注意を受ける。そこで、矢野はまず犬養を説得し、その協力を得て秀栄に無条件で話し合うよう納得させた。
 話し合いの日時の設定には矢野と秀元が平塚の別荘に滞在中のたみ子のもとへ出向き調整したという。
 話し合いには矢野と秀元も立ち会っている。たみ子は囲碁に関する興味は失せていたが、秀栄が師匠であることには変わりなく、他人が支援を行うなら自分も行わなければならないと、名誉会員となることを了承した。
 しかし、その後食事会も行われたが、秀栄は一言も言葉を発することはなかったという。この日を最後に秀栄が再び高田邸を訪れることはなかった。

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