囲碁史記 第76回 方円社 段位制から級位制へ
新しい「方円社」の立ち上げと免状発行
明治十二年四月に発会した囲碁研究会「方円社」は、十月には家元側が脱退し、さらに社員の段位が剥奪されるという事態を迎える。
家元側が去った後も方円社は神田花田町の相生亭で月一回の例会を行っていたが、この時期に刊行された『囲棋新報』には社員の段位は記されていない。
しかし、そういう状態は永くは続かなかった。方円社で独自に免状を出せば良いという話になったのだ。幕府の管轄下にあった江戸時代なら不可能であったが、維新後には家元が免状発行を独占する根拠がなくなりそれが可能となった。
方円社を会社組織として再編すると、明治十三年七月二十六日付で、方円社は秀甫を社長として社員十一名が連署して免状発行することを東京府に届け出ている。その内容を林裕氏が昭和五十年代に刊行された「棋道」に掲載しているので紹介する。東京都庁公文書館所蔵のものである。
囲碁免状授与御届 (明治十五年回議録、第六類、諸願伺)
竊ニ以ミルニ囲碁ノ家邦ニ伝フルヤ久シ。而テ中世ノ事、得テ考フベカラズ。降リテ徳川氏初二代頃ニ至リテ、大ニ世ニ行ハル。遂ニ本因坊ヲ以テ碁所トナシ、其徒ヲ教ヘシメ、尋テ井上、安井、林ノ三氏ヲシテ、本因坊ト相並バシム。此ヲ碁所四家ト称シ、食禄及ビ格位ヲ賜ヒ、寺社奉行之ヲ統轄ス。爾来、斯道益盛ニ、斯技益精シ。碁品ヲ定メテ九等トシ、初段ヨリ九段ニ至ル。九段ヲ名人ト称シ、八段ヲ半名人、七段ヲ上手卜称ス。品位七段ニ陞レバ一代碁所ト称シ、四家ノ人ト共ニ将軍面前ニ於テ技ヲ闘ハスヲ許ス。而シテ四家ノ人ト雖モ、其技拙ケレバ七段以上ニ至ルヲ得ズ。故ニ四家ノ継統、概ネ其門生ノ其器ニ当ル者ヲ選ミテ之ヲ為ス。凡ソ海内ノ斯技ニ長ズル者ハ、四家協議シテ其品位ヲ与へ、之ニ免状ヲ授ケ、初段ヨリ以テ漸次ニ昇進シ、敢テ超越スルヲ得ズ。鯔鉄ヲ較量シテ、必ズ其技術ニ称ハシム。蓋シ斯道ノ開進ヲ謀り、後生ヲ奨励スル所以ノ術ナリ。之ヲ行フ弐百余年、斯技ノ精巧、寔ニ寓内ニ冠絶スルニ至レリ。然ルニ維新以後、碁所ノ称、遂ニ廃シ、斯道自カラ衰微者ニ属セントス。如是ニシテ年月ヲ経、従前品位ニ昇リシ者、次第ニ凋喪シ、後生勉励ノ道立タズ。恐クハ斯技ノ意ニ地ニ墜ン事ヲ。是ニ於テ秀甫等、相議シ、一社ヲ結ビ、相共ニ切磋琢磨シテ、斯技ノ興隆ヲ謀ラン事ヲ欲ス。結社以来、未ダ二年ナラズシテ、四方ノ名手、陸続集合シ、毎月刊行スル所ノ棋報殆ンド弐拾集ニ及ビ、大ニ吾徒ノ意気ヲ鼓舞スルニ至レリ。因テ又、相議シテ以為ラク、品位授与ノ事ナクンバ後生ヲ奨励スル能ハズ。今後社員ノ公議ヲ以テ、旧例ニ準彷シ、初段以上応分品位ヲ与へ、免状ヲ授ケン。現今、社員拾余名、概ネ皆、従前五段以上ニ昇リシ者、協同商議シテ総テ其至当ヲ得セシメン。夫、囲棋ノ技タル、遊戯ニ属スト雖モ、理致精妙ニシテ上下適宜ノ遊芸タリ。而シテ我邦碁品ノ高キ、寓内ニ冠絶スルニ至リシハ、又、一朝一夕ノ能ク致ス所ニ非ラズ。方今百芸俱ニ興り、朝野ノ孜々スル所、殊ニ旧物ヲ保存スルニアリ。庶幾クバ、斯技ノ興隆、亦聖代治化ノ萬一ニ裨補アラン事ヲ。伋テ此段、及御届候也。
方円社員
神田区表神保町弐番地
社長
明治十三年七月二十六日 村瀬 秀甫 (印)
社員
中川亀三郎(印)
高橋 周徳(以下同)
野村 季友
梅主 長江
小林鉄次郎
高橋杵三郎
大沢銀次郎
酒井安次郎
水谷 縫次
林 佐野女
今井金江茂
東京府知事 松田 道之殿
この届出により、当時の方円社員は社長村瀬秀甫以下、僅か十二名だったことが分かる。
こうして方円社員は再び段位を名乗り、自分達の思惑で昇段も可能となった。
この後、方円社は初めて自分達で決めた段位で定例会を開催する。
明治十三年八月十五日 方円社定例会
十五目勝 村瀬 秀甫 七段
先 高橋周徳 五段
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中川亀三郎 六段
七目勝先番 内垣 末吉 五段
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五目勝 小林鉄次郎 六段
先 山崎外三郎 四段
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梅主 長江 五段
中押勝先番 水谷 縫次 四段
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高橋杵三郎 五段
三目勝 先 今井金江茂 三段
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酒井安次郎 五段
三目勝先番 大沢銀次郎 四段
この定例会で野村季友と林佐野は対局していないが、代りに内垣末吉と山崎外三郎が参加し、方円社は参加者を新たな段位で遇している。
そして、この時小林鉄次郎を六段に進め、内垣末吉、酒井安次郎の二人を五段、山崎外三郎、水谷縫次を四段へと独自に昇段させている。
秀甫と亀三郎の昇段
明治十四年五月十五日、秀甫と亀三郎はそれぞれ八段と七段に昇進し、記念碁会が行われる。二人が研究会としての方円社が発会する直前に対局した棋譜が「郵便報知新聞」に掲載されているが、この時、秀甫は「黙許八段」、亀三郎は「黙許七段」となっていたので、二人の昇段は既定路線であったのだろう。
なお、秀甫の八段は準名人ともいわれ、名人に手が届く地位である。しかし、秀甫自身は名人になろうという野心は無かったといわれる。「坐隠談叢」には次のような記述がある。
明治十七、八年頃、秀甫の碁品、天下に比類なしとして、門下知友、相謀りて名人に推さんとす。秀甫、太だ喜ばず「由来、名人なる者は、僅かに指を屈するに足る、実に斯道の大賢人とも云うべきなり。然るに今、予を推さる。予、少しく技ありと雖も、何ぞ此の大賢人に当らんや。夫、位なきを推して、高きに登らしめんとするは、畢竟、之を辱しむるものなり」と。然として 謝絶しければ、再び言う者なかりし。
また、次のような記述もある。
某、曾って秀甫を評して曰わく「彼にして、今少しく馬鹿なりせば、名人の域に達せしなるべし」と。是れ其の方円社に在りて、局に対しながらも、来客の甲乙を知りて一々挨拶を交へ、茶を命じて手合を定むるなど、注意して抜目なく切り廻す点を云えるものにして、世俗の所謂、口八丁手八丁的才物なればなり。時人、以て適評となす。
ところで、秀甫と亀三郎の昇段記念の碁会には安井算英も参加している。算英は方円社を退会したが、前年十一月から再び参加し始め、家元と方円社の調停に動いていたといわれる。記念碁会の次席は高橋周徳(五段)の次という立場に甘んじていた。しかし家元を無視して八段となったことで両者の溝はさらに深まったことだろう。
級位制への移行
明治十六年、方円社はそれまでの段位制を廃し、級位制に転じている。
段位制では初段から九段(名人)へと上がっていくが、級位制は九段(名人)を第一級、初段を第九級とし、さらにその下に第十二級まで設けられた。その理由として三つのねらいがあったと考えられている。
第一に西洋文化の流入により名人、九段をナンバーワン、つまり第一級とする方が西欧人に理解されやすかったこと。第二に初段にあたる第九級の下に第十二級まで三階級増やすことによって幅広い会員を集められること。第三に家元らの門人と、はっきり区別がつくことがあげられる。
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