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囲碁史記 第86回 金玉均と秀栄(後編)
流配解除後の動き
金玉均は、明治二十三年十一月 二十一日に流配が解除されると、精力的に活動を再開し、各地に足跡を残している。
関東に留まらず、関西にまで足を伸ばし、朝鮮情勢の情報収集や活動資金の獲得に奔走していたようだ。
ただ、囲碁界では金玉均が沖縄を訪れ、そこへ秀栄が訪ねていったという話が伝わっている。現地で碁会が開かれ、席上、仇池遷史という人物が山水を画き、それに金玉均が書を書き添えて秀栄に贈ったという掛け軸が、後に秀栄の跡を本因坊秀哉と争う雁金準一の家に伝わっていたためだ。しかし、著名な金玉均や秀栄が訪れたというのに新聞報道されないのはおかしいとして否定的な意見もある。たまたま秀栄が持っていた掛け軸に金玉均が添書きしたというのが真相ではないかとも言われている。
東京都内での足跡 勝専寺の碑
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囲碁以外の都内における金玉均の足跡についても紹介する。
足立区千住にある勝専寺は、赤門のある寺として知られ、通称「赤門寺」とも呼ばれている。山門の「三宮神山」の扁額は明治十二年(一八七九)の明治天皇の勝専寺御巡幸を記念して掲額されたもので、巻菱潭の揮毫によるものである。
また、この辺りにはかつて煉瓦工場がたくさんあったことから、明治時代に外塀は赤煉瓦で造営されている。
勝専寺は文応元年(一ニ六〇)創建と伝えられ、安置されている木造千手観音立像(非公開)は、荒川の水底から引き上げられたもので、千住の地名の由来となったと伝えられている。
赤門は江戸時代に将軍家と関わり深い寺院や大名屋敷に認められていたもので、勝専寺は将軍の鷹狩や日光社参時の休憩所となり、徳川家忠・家光・家綱らが利用したとの記録も残っている。
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境内の閻魔大王堂には寛政元年(一七八九)に開眼された朱塗りの「えんま王坐像」が鎮座し、勝専寺は「おえんま様」の愛称でも親しまれている。毎年一月と七月の十五・十六日に開帳され縁日が開かれている。
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境内の鐘楼は安永四年(一七七五)に建設されているが、明治に入って破損したため明治二十四年(一八九一)に再建されている。
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そのいきさつが記された「鐘楼建築記念碑」が鐘楼の石垣に埋め込まれているが、碑の撰文は金玉均によるものである。
なお、この時の鐘は戦時中の金属供出で失われたため、昭和三十四年(一九五九)に地元有志の募金で再鋳されている。
囲碁界との関り
これまで、金玉均が秀甫と秀栄の和解に尽力したことや、たびたび碁会を開催したことなど、囲碁界との関りが深いことを紹介してきたが、その他のエピソードを紹介する。
田村保寿の本因坊家入門
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田村保寿、後の本因坊秀哉は、十一歳のときに方円社の塾生となり、塾頭の石井千治、杉岡榮治郎とともに方円社の三小僧と称され活躍してきたが、明治二十四年に秀甫の養子の村瀬彪と共に商売を始めようとして方円社を退社している。
詳しい話は秀哉の回で紹介することとするが、計画がとん挫して千葉県の知り合いの寺に厄介となり、悶々とした生活を送っていた田村は、やがて自分には囲碁しかないと考えるようになるが、啖呵を切って方円社を飛び出した手前、戻る事が出来ない。そうした中、碁界に参加する等、懇意にしていた金玉均を訪ねたところ、その気があるなら本因坊秀栄を紹介すると言われ、本因坊門下となっている。
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